吉津村(読み)よしづむら

日本歴史地名大系 「吉津村」の解説

吉津村
よしづむら

[現在地名]三野町吉津

下高瀬しもたかせ村の西にあり、北は汐木しおぎ山、西は七宝しつぽう山塊、南は山条やまじよう山に囲まれ、東に平地が開ける。年月日未詳浪打八幡放生会頭人番帳写(宝寿院文書)に「吉津詫間仁尾分十二年廻」として三六名の頭人があがる。貞治六年(一三六七)二月一八日の年中行事番帳写(同文書)に吉津日天寺・大光寺・多聞坊がみえ、明徳二年(一三九一)八月九日の放生会駕輿丁次第写(同文書)に吉津正元ら六名の名がある。寛永国絵図に村名がみえ、詫間たくま郷に所属。寛永一七年(一六四〇)の生駒領高覚帳では一千三一石余、うち一〇石が新田。同一八年の小物成は綿一四五匁・塩二七〇俵二斗四升(山崎領小物成帳)


吉津村
よしづむら

[現在地名]福山市北吉津きたよしづ

常興寺じようこうじ山の北麓一帯に立地。平安末期から中世にかけて陸化していた福山湾内の北部海岸は良港であったと考えられ、地名は吉き津であろう。中世には吉津庄の名がみえる。

吉津庄内の常興寺山に福山城が築城され、周辺の集落は古吉津ふるよしづ町・吉津町として城下町に編入された。残余の吉津庄内の地は吉津村となり、城下八ヵ郷の一村として諸役諸掛りなどの郡方割を免除され、城下との特別な関係から、城下町の内ではないが経済機能のうえからは多分に城下町の補助的役割を果すものとして扱われてきた。


吉津村
よしづむら

[現在地名]三川村岩津いわづ 吉津

西は岩谷いわや村、南は谷沢やざわ村、北は阿賀野川を隔てて岡沢おかざわ村。文禄三年(一五九四)七月の蒲生氏高目録帳(内閣文庫蔵)に「吉津 四石六斗九升」とある。元和六年(一六二〇)の漆木役は二一五本(津川旧記)元禄郷帳では八四石二斗余。「新編会津風土記」によれば家数五四、岩谷村への船渡があり琵琶渡といわれたという。


吉津村
よしづむら

[現在地名]与板町吉津

くろ川右岸の信濃川・黒川両河川により形成された沖積低地にある。東は成沢なりさわ(現長岡市)、北西は中田なかだ新田・なか村、南は広野ひろの村。「三島郡誌」によると、地形は凹地をなす湛水地域で排水の便がなく、洪水の惨禍の中心をなしたという。慶長二年(一五九七)の福島掃部助宛知行宛行状(覚上公御書集)に「山東郡吉津村」高一六二石八斗余、家数三とある。元和六年(一六二〇)長岡藩領。


吉津村
よしづむら

[現在地名]焼津市吉津

花沢はなざわ村の南に位置し、高草たかくさ山の東麓に立地する。益津ましづ郡に属する。慶長年間(一五九六―一六一五)に花沢村から分村したとされ(明和二年「一札」花沢区有文書)、慶長九年八月の山西益頭之内花沢村・吉津村御縄打水帳(石川家文書)が残る。寛永一九年(一六四二)の田中領郷村高帳では高九五石余。その後しばらく田中藩領が続き(「寛文朱印留」、正徳二年土岐頼殷領知目録など)享保一五年(一七三〇)幕府領、同二〇年幕府領と美濃岩村藩領の相給(「寛政重修諸家譜」「志太郡誌」など)、安永七年(一七七八)岩村藩領と田中藩領との相給となり、幕末に至る(天明八年「松平乗保領知目録」松平家文書など)


吉津村
よしづむら

[現在地名]静岡市吉津

藁科わらしな川の右岸沿いに位置し、東は産女うぶめ新田。領主は安西外あんざいそと新田と同じ。元禄郷帳では高一一六石余。旧高旧領取調帳では幕府領一〇二石余・法城ほうじよう(現曹洞宗)除地五斗。なお享保一六年(一七三一)の駿府代官所村高帳に吉津村八九石余・吉津台新田二八石余とあり、前者は丸子まりこ宿助郷・川除御普請所、後者は川除御普請所と記される。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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