岩谷村(読み)いわたにむら

日本歴史地名大系 「岩谷村」の解説

岩谷村
いわたにむら

[現在地名]北区長尾町上津ながおちようこうづ赤松台あかまつだい一―二丁目

上津上こうづかみ村の西にある有馬ありま郡の村。武庫むこ川の支流長尾川上流に位置する。赤松あかまつ峠を越えると西は播磨美嚢みなぎ郡。慶長国絵図に「岩屋村」、元和三年(一六一七)の摂津一国御改帳に岩谷村とみえ、高はいずれも市原いちはら村と合せて一九八石余。正保郷帳では岩谷村が独立して高付され、高一五〇石で、幕末まで同高。領主の変遷は二郎にろう村に同じ。


岩谷村
いわがたにむら

[現在地名]内海町岩谷

播磨灘に面する小漁村。北に茶臼ちやうす(四五三・六メートル)がそびえ、中央を城石しろいし川が東流する。たちばな当浜あてはま両村とともに東浦ひがしうらと通称される。近世草加部くさかべ郷の枝村。慶長一〇年(一六〇五)検地では高三石余・反別一町三反(安田村誌)。延宝七年(一六七九)の検地では高一六石余・反別三町余(田三反余・畑二町六反余・屋敷一反余)、鰯網一・鯖網一、家数二一(同書)


岩谷村
いわやむら

[現在地名]足助町岩谷

町道まつ日明ひあかり線に沿い、東に五七一・八メートルの十明とみよう山、南に六八三・五メートルの炮烙ほうろく山を望む。東は四ッ松村、南は下平しもだいら村、西は平折ひろり村、北は栃本とちもと村に接する。集落山麓の南面した急な傾斜地に点在。元禄一四年(一七〇一)の三河国村附によると、梶正持知行地となっている。


岩谷村
いわやむら

[現在地名]岡崎市岩中いわなか

青木あおき川の上流、標高二八八メートルの岩谷山があり、その麓の谷間に点在する村落。北は山続きの蔵次くらなみ村、南は中畑なかばた村。西は渓流に沿う道を通じてたき村に出る。天正以後明治に至るまで岡崎藩領。東山中手永に属し、享和二年書上には高一七二石余、人別男六七・女六六、牛六。


岩谷村
いわやむら

[現在地名]三川村岩津いわづ 岩谷

阿賀野川右岸にあり、北は岡沢おかざわ村の山地、東の対岸吉津よしづ村、西の対岸は五十島いがしま村。文禄三年(一五九四)七月の蒲生氏高目録帳(内閣文庫蔵)に「岩屋 六十四石四斗七升」とあり、給人は平左。元和六年(一六二〇)の漆木役は一四一本(津川旧記)。元禄郷帳では岩谷村とあり三二石三斗余。「新編会津風土記」によれば家数三一。明和―安永年間(一七六四―八一)に肝煎孫十郎が再三酒造願を提出している(「酒箒之事」津川旧記)


岩谷村
いわやむら

[現在地名]広見町岩谷

広見川下流域に位置する。北は小西野々こにしのの村、南は興野々おきのの村に接する。

慶安元年伊予国知行高郷村数帳(一六四八)宇和郡の項には「岩屋村 茅山、川有」と村名が異記される。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

今日のキーワード

部分連合

与野党が協議して、政策ごとに野党が特定の法案成立などで協力すること。パーシャル連合。[補説]閣僚は出さないが与党としてふるまう閣外協力より、与党への協力度は低い。...

部分連合の用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android