吉田 晴風
ヨシダ セイフウ
- 職業
- 尺八奏者 邦楽作曲家
- 本名
- 吉田 康次(ヨシダ ヤスジ)
- 別名
- 旧号=吉田 竹堂
- 生年月日
- 明治24年 6月24日
- 出生地
- 熊本県 玉名郡長洲町
- 学歴
- 熊本商〔明治44年〕卒,日本音楽学校〔大正7年〕卒
- 経歴
- 祖父の代までは酒造業を営み、父は弟と菓子や飴などの製造業をしていたが、明治30年7歳の時に亡くなった。長洲小学校4年の頃に近所の若い衆が吹いていた尺八の音色に魅せられ、翌年親戚から粗末な尺八を貰って吹き始める。熊本商業に入ると、姉がそれまで蓄えてきたお金の全額8円で待望の尺八を買ってくれ、鳥井若菜(虚霧洞)に師事した。43年尺八に熱中しすぎて落第したことから尺八との訣別のために虚無僧旅行に出発するも、親戚に呼び戻されて油を絞られ、以後1年間尺八を封印して学問に励んだ。その甲斐もあって学校を首席卒業すると、朝鮮に渡って大豆貿易商のもとでの見習い奉公をはじめ、大正3年穀物商として独立。この年、京城で暮らしていた宮城道雄と出会い初めて合奏、以降兄貴分として、肝胆相照らす生涯の友となった。4年取引先の韓湖農工銀行に疑獄事件が起こると自身も嫌疑をかけられて拘束され、これを機に商売から足を洗って尺八で立つことを決意。同年上京して旧師・鳥井の家に転がり込み、郷里で貰った島村抱月と山田源一郎への紹介状をもって2人を訪ねたが、抱月は満州・朝鮮に巡業に出ており不在で、このため新劇の方に進むことはなかった。山田からは校長を務めていた日本音楽学校に入学を許され、また尺八科を新設されてその講師を託された。6年盟友の宮城を東京に呼び寄せ、駅頭で抱き合って泣いた。7年初めて門下の演奏会を開催、またこの年箏曲家の熊谷京子(吉田恭子)と結婚。これまで東京高等師範や高等商業、拓殖大学などで学生たちに尺八を教えており、8年各校合同による学生尺八大会を創設に関わった。9年宮城、本居長世と新日本音楽の第1回演奏会を開催(新日本音楽の命名者である)。10年号を竹堂から晴風に改めた。12年報知新聞の後援を受け、関東大震災の遣米答礼音楽使節として本居と渡米。14年処女曲「祈り」を作曲。昭和5年広島に住んでいた千葉富子を見いだして上京させ、箏曲家として育てるつもりでいたが、のち千葉早智子の芸名で女優となった。7年晴風会を組織して、全国に尺八普及運動を展開した。8年楽劇「国難」を構想・上演。12年前年来日したシャム国芸術使節団の答礼使節として同国を訪れた。また日本大学芸術科や陸軍病院でも尺八を教え、15年日本三曲協会が発足すると常任理事兼新日本音楽部長に就任。この年、東京日日新聞社の主催で皇紀二千六百年を記念して宮城前から靖国神社までの尺八二千六百人パレードを発起し、実行に導いた。戦時中は満州をはじめ各地に慰問に行き、20年小田原に疎開。以来、亡くなるまで同地で過ごした。他の作品に「かもめ」「子守唄」「海」「挽歌」などがあり、ビクターからは「しぶきを浴びて」(三島一声)、「廻れ歯車」(三島、千葉早智子)、「紙芝居」(灰田勝彦)などが出ている。著書に「晴風随筆」「琴と尺八」など。
- 受賞
- タイ文化勲章〔昭和12年〕
- 没年月日
- 昭和25年 6月30日 (1950年)
- 家族
- 妻=吉田 恭子(箏曲家)
出典 日外アソシエーツ「新撰 芸能人物事典 明治~平成」(2010年刊)新撰 芸能人物事典 明治~平成について 情報
吉田晴風 (よしだせいふう)
生没年:1891-1950(明治24-昭和25)
琴古流尺八家,作曲家。〈新日本音楽〉の名づけ親として,また宮城道雄の協力者,親友として有名。熊本の酒造業の家の生れ。7歳で父寅雄と死別。叔父の援助で熊本商業学校に進む。10歳ころから吹きはじめた尺八に熱中し,熊本の鳥井若菜に師事。同じく熊本の地歌の名人長谷幸輝に目をかけられ,三曲合奏の腕を磨いた。商業学校卒業後,朝鮮に渡り京城(ソウル)で大豆商を営み,かたわら竹堂の芸名で尺八でも活動。1914年同地で3歳年下の中菅(のちの宮城)道雄と出会い,将来の中央進出を誓いあう。15年,銀行の疑獄事件に巻き込まれたため実業界を諦め,尺八専念を決意して,上京。東京に移住していた旧師鳥井若菜の玄関番兼代稽古(だいげいこ)となり,かたわら神田の日本音楽協会(女子音楽学校付設)でピアノを学んだが,これが古典一辺倒の鳥井の不興を買い,師と決別,独立して尺八教授を始めた。女子音楽学校校長山田源一郎などの支援で教授活動が広がって生計が立つようになった彼は,早速,宮城道雄を促して17年東京に迎えた。以来,作曲,演奏両面での2人の協力は生涯続く。20年,宮城と本居長世との合同作品発表会(吉田は共演)の際,〈新日本音楽大演奏会〉と銘打つことを吉田が提案し,以後〈新日本音楽〉が吉田,宮城らの新作活動の通称となった。21年から晴風と改名。23年関東大震災へのアメリカからの救済に対する答礼音楽使節として渡米。37年には親善芸術使節としてタイを訪問。同国文化勲章受章。代表作に《かもめ》《祈り》(ともに1925),《子守歌》(1926),著書に《晴風随筆》がある。
執筆者:上参郷 祐康
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
吉田 晴風
ヨシダ セイフウ
大正・昭和期の尺八奏者,邦楽作曲家
- 生年
- 明治24(1891)年8月5日
- 没年
- 昭和25(1950)年6月30日
- 出身地
- 熊本県
- 本名
- 吉田 康次(ヨシダ ヤスジ)
- 学歴〔年〕
- 熊本商業卒
- 経歴
- 大正4年上京、尺八の鳥井若菜の内弟子となり、傍ら日本音楽学校で洋楽を学ぶ。6年箏曲の宮城道雄と共に洋楽の形式を取り入れた新日本音楽運動に活躍。のち晴風会を組織し、全国に尺八普及運動を展開した。作曲に「祈り」「かもめ」「子守唄」、著書に「晴風随筆」「琴と尺八」などがある。
出典 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)20世紀日本人名事典について 情報
吉田晴風
よしだせいふう
(1891―1950)
尺八演奏家、作曲家。本名康次(やすじ)。熊本県生まれ。12歳より尺八を吹き始め、琴古流の鳥井若菜に師事、地歌三絃(じうたさんげん)の名人長谷幸輝(ながたにこうき)の薫陶を受けた。熊本商業学校卒業後、大豆王を夢みて朝鮮の京城(現ソウル)に渡り、箏曲(そうきょく)家宮城道雄(当時中菅検校(なかすがけんぎょう))と出会う。以後両者の協力は、東京での新日本音楽運動を通して生涯続いた。1923年(大正12)遣米答礼音楽使節として渡米、さらに37年(昭和12)のタイ国への訪問に際しては同国文化勲章を受けた。新日本音楽の命名者でもあり、洋楽の手法を導入した新様式の作品、『祈り』(1925)、『海』(1932)などがある。
[月溪恒子]
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吉田晴風
よしだせいふう
[生]1891.5.18. 熊本
[没]1950.6.30. 東京
琴古流尺八家。本名康次。初号竹堂。熊本の鳥井若菜の門人。朝鮮在住期に京城 (現ソウル) で宮城道雄と知合った。 1915年尺八家として立つべく上京。 17年宮城を東京に迎え,ともに新日本音楽運動を起した。以後生涯,宮城に協力しつつ,尺八の演奏,教授に活躍。 24,31年にはアメリカに,37年にはタイに演奏旅行。作曲に『かもめ』『祈り』など,著書に『晴風随筆』などがある。
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吉田晴風 よしだ-せいふう
1891-1950 大正-昭和時代の尺八奏者,作曲家。
明治24年8月5日生まれ。琴古流(きんこりゅう)尺八の鳥井若菜に師事,のち洋楽もまなぶ。朝鮮で箏曲(そうきょく)の宮城道雄とであい,「新日本音楽」と名づけた運動をとおして作曲,演奏両面で協力する。作品に「祈り」など。昭和25年6月30日死去。58歳。熊本県出身。熊本商業卒。本名は康次。著作に「晴風随筆」。
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吉田 晴風 (よしだ せいふう)
生年月日:1891年8月5日
大正時代;昭和時代の尺八奏者;作曲家
1950年没
出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報
世界大百科事典(旧版)内の吉田晴風の言及
【宮城道雄】より
…その間も神戸の旧師や熊本の三味線の名手長谷検校に師事して研修を続けた。京城で生涯の協力者となった琴古流尺八家[吉田晴風]と出会う。両人は東京進出を図り,17年相前後して上京。…
※「吉田晴風」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」