新撰 芸能人物事典 明治~平成 「吉田玉男」の解説
吉田 玉男
ヨシダ タマオ
- 職業
- 文楽人形遣い
- 専門
- 人形浄瑠璃
- 肩書
- 重要無形文化財保持者(人形浄瑠璃文楽・人形)〔昭和52年〕
- 本名
- 上田 末一(ウエダ スエイチ)
- 生年月日
- 大正8年 1月7日
- 出生地
- 大阪府 大阪市浪速区日本橋
- 学歴
- 恵美二小〔昭和7年〕卒
- 経歴
- 空調設備会社の給仕を経て、昭和8年14歳で近所に住む文楽人形遣いの吉田玉幸(のち3代目吉田玉助)に勧められ、“口下手なため、しゃべらんですむ仕事を”と吉田玉次郎に入門、吉田玉男を名乗る。9年文楽座で初舞台。初代吉田栄三にも師事。15年より終戦まで兵役に就き、21年復帰。戦後、24年文楽界が分裂した際には非労働組合派の因会(ちなみかい)に所属。3代目玉助の左遣いなどを務め、30年、240年ぶりに復曲上演された近松門左衛門「曽根崎心中」で主役の徳兵衛遣いに抜擢され、以来当たり役として、平成6年1000回を記録。14年には1111回となり、一つの役を使った新記録を達成、最終的に1136回まで記録を伸ばした。15年84歳で荒物の代表作である「義経千本桜・大物浦」の平知盛を遣った。17年大阪・国立文楽劇場での「桂川連理柵」の帯屋長右衛門を遣ったのが最後の舞台となった。他の代表作に「菅原伝綬手習鑑」の菅丞相、「冥途の飛脚」の亀屋忠兵衛、「一谷嫩軍記」の熊谷直実、「本朝女四孝」の武田勝頼など。この間、昭和52年人間国宝に認定。53年紫綬褒章、平成元年勲四等旭日小綬章を受章。12年文化功労者。熱心な勉強家として知られ、原作を読み込んでそれまでの型(演出)を再検討して動きひとつひとつに合理的かつ納得のいく解釈を与え、わずかな所作で人形の深い内面までを的確に表現。それにより女形、二枚目から荒物までこなす広い芸域を持ち、動かずにいるときも役の感情が匂い立つ品格のある構えで、文楽史上屈指の名人と評される。また“名よりも芸”として、名人ながら大名跡を襲名せず初名のまま通した。
- 受賞
- 文化功労者〔平成12年〕 紫綬褒章〔昭和53年〕,勲四等旭日小綬章〔平成1年〕,旭日重光章〔平成18年〕 大阪府民劇場奨励賞〔昭和41年〕,名古屋演劇ペンクラブ年間賞〔昭和55年〕,大阪府民劇場賞〔昭和57年〕,大阪芸術賞〔昭和58年〕,国立劇場文楽賞(特別賞)〔昭和59年・平成6年〕,松尾芸能賞(特別賞 第16回)〔平成7年〕,伝統文化ポーラ賞(大賞 第17回)〔平成9年〕,朝日賞(平9年度)〔平成10年〕,京都賞(思想・芸術部門 第19回)〔平成15年〕
- 没年月日
- 平成18年 9月24日 (2006年)
- 伝記
- 文楽 二十世紀後期の輝き―劇評と文楽考歌舞伎―研究と批評〈40〉特集 吉田玉男上方芸能の魅惑―鴈治郎・玉男・千作・米朝の至芸 内山 美樹子 著歌舞伎学会 編森西 真弓 著(発行元 早稲田大学出版部歌舞伎学会,雄山閣〔発売〕日本放送出版協会 ’10’08’03発行)
出典 日外アソシエーツ「新撰 芸能人物事典 明治~平成」(2010年刊)新撰 芸能人物事典 明治~平成について 情報