江戸中期の神道(しんとう)家。字(あざな)は子礼(しれい)、号は緑山、恭軒(きょうけん)、風水翁、風水散人。寛文(かんぶん)13年9月15日生まれ。祖父の幸勝以来、名古屋東照宮の祠官(しかん)で、1696年(元禄9)家督を継いだ。祖父も神道家であるが、初め松下見林(まつしたけんりん)、のちに正親町公通(おおぎまちきんみち)、玉木葦斎(たまきいさい)(1671―1736)に神道を、浅見絅斎(あさみけいさい)に儒学を、伏原宣通(ふしはらのぶみち)(1667―1741)、壺井義知(つぼいよしちか)(1657―1735)、平田職俊(ひらたもととし)(1633―1711)に有職(ゆうそく)を、中院通躬(なかのいんみちみ)(1668―1740)に和歌を学んだ。とくに垂加(すいか)神道の奥義を究め、神職としても厳しい清浄の生活に徹したが、1728年(享保13)病を得て辞職した。その後は研究に専念、文献学的研究を深め、『五部書説弁』を著して神道五部書を偽書と論証したほか、伊勢(いせ)神道、吉田神道など在来の神道説を鋭く批判した。最晩年は『日本書紀』神代巻の研究に没頭したが、納得できる方法を得ないまま、宝暦(ほうれき)11年4月26日、89歳で没した。
[谷 省吾 2017年10月19日]
『『吉見幸和集』全2冊(1942・国民精神文化研究所)』▽『阿部秋生著『吉見幸和』(1944・春陽堂)』
江戸中期の国学者,神道家。尾張の人。通称定之助,恭軒または風水翁,風水散人と号す。尾張藩主徳川綱誠に仕え,名古屋東照宮の祠官となり,刑部大輔に任じ,正四位下に叙せられた。後左京大夫に昇進,在職33年で致仕の後89歳で没した。儒学を浅見絅斎(けいさい),神道を玉木葦斎(いさい)に,和歌を僧契沖に学び,和漢の学を重ね,有職故実(ゆうそくこじつ)に暁通していたが,家は代々神道家であったため幸和の本領も神学にあり,当時の神道家の弊習を矯正し,垂加流より出てみずから一派を成した。考証的学風によって《神道五部書》が偽書であることを解明して《五部書説弁》を著した。そのほか《神代正義》《神学弁義》などの著作がある。徳川中期になると考証的学風が勃興し,儒学においては徂徠学が従来の程朱学に対し自由討究の学問を提唱した。神道においても秘伝重視の垂加神道に対し,垂加神道の中から秘伝批判の学説が勃興する。それが神典批判の幸和の学問であった。
執筆者:平 重道
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(白山芳太郎)
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…中世には,神宮の伝承を歴史的に述べようとした前3書が神書として重んぜられていたが,近世になって山崎闇斎をはじめとする垂加流の神道家が,後2書の反仏教的な主張を高く評価したために,神道五部書という呼び方が一般にひろまった。五部書はいずれも奈良時代には成立していたと記されているが,江戸時代中期に吉見幸和が偽書であることを論証して以来,長い研究史を経て,鎌倉時代中期にまず後2書が作られ,ついで前3書が書かれたと考えられるようになった。五部書は,室町時代以降吉田神道,垂加神道などの神道家に尊重されたが,各書の間には思想的に一致しない部分もあり,神祇の伝承と密教,さらに中国の古典の所説等を習合して反仏教的な立場を主張しようとする論理には,とらえにくいところが少なくない。…
※「吉見幸和」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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