日本大百科全書(ニッポニカ) 「同和事業」の意味・わかりやすい解説
同和事業
どうわじぎょう
未解放部落(被差別部落)住民の生活環境の改善、職業の安定、教育の充実、人権擁護活動の強化、社会福祉の増進などを図る事業。地域改善対策事業ともいう。
[成澤榮壽]
歴史的経過
これを歴史的にみれば、自主性の強い部落改善運動の発展に促されて、1907年(明治40)第二次桂(かつら)太郎内閣が地方改良運動と称する社会政策の一環として部落改善政策に着手したことに始まる。この政策は、1871年(明治4)布告の「賤民(せんみん)解放令」を明治天皇の「聖旨」ととらえ、部落改善を「国家」発展のために官民合同で進める方針のもとに、市町村長や警察官などの指導で未解放部落住民の自力による「更生」を図ろうとするものであった。米騒動(1918)後、未解放部落に関する社会政策が本格化した。すなわち1920年(大正9)原敬(たかし)内閣は初めて5万円の予算を計上し、融和政策を開始した。この政策は全国水平社が結成(1922)されてから、より積極的なものとなり、1923年、政府は部落改善の名称を地方改善と改め、その予算を21万円から49万円に増額し、初めて内務大臣訓令を出した。以後、政府は、府県単位の官製融和団体を結成するとともに、既成の自主性の強い地方融和団体の半官半民化を図り、1927年(昭和2)には中央融和事業協会を唯一の中央融和団体とし、融和事業は主としてこれを通じて実施されることとなった。融和事業の内容には、未解放部落の環境改善、産業の育成、副業の奨励、失業救済や教育の奨励などがあった。しかし、それは字義通りの融和とはほど遠いものであった。しかも、事業は日中戦争の激化で遂行が困難になり、太平洋戦争開始後は事実上ほとんど行われなかった。
[成澤榮壽]
第二次世界大戦後の経過
第二次世界大戦後、未解放部落の経済力の育成、生活の安定、福祉の向上などを図ることを目的とする事業を同和事業とよんだ。この呼称は、1941年(昭和16)中央融和事業協会がその名を同和奉公会と改めたことに由来する。戦後、政府の同和事業の着手は大幅に遅れたが、地方公共団体のなかには早くから同和事業を実施したところもあり、1951年それらの職員を中心に全日本同和対策協議会(全同対)が結成された。全同対や部落解放運動関係者の働きかけで、初めて国の同和予算1000万円が計上されたのは1953年であるが、政府が同和対策と本格的に取り組む姿勢をみせるのは、1958年に部落解放同盟を中心とする部落解放国策樹立要請運動が積極的に展開されてからのことである。政府は、同年同和問題閣僚会議を設置し、翌年同和対策要綱を作成して総合施策の実施を計画、1961年に同和対策審議会を発足させた。同対審は、1965年同和事業に関する答申を政府に提出、翌年同和対策協議会に改組された。
1969年、未解放部落住民の社会的、経済的地位の向上を困難にしている諸要因を除去するために、国と地方公共団体が推進すべき施策について定めた同和対策事業特別措置法(昭和44年法律第60号)が国会で全会一致により成立した。これにより戦後における本格的な同和事業が開始されることになった。10年の時限立法として成立し、3年間延長された同法は、1982年3月期限切れを迎え、新たに有効期間を5年間とする地域改善対策特別措置法(昭和57年法律第16号)が全会一致で制定された。この法律は、対象地域と周辺地域との一体性の確保を図り、公正な運営に努めなければならないとうたっており、地域改善対策事業の内容を政令で押さえた。1969年度から1986年度までの国・地方公共団体の同和事業関連の予算合計は8兆円弱に上った。1986年12月、地域改善対策協議会が実態的差別の解決が進んだと指摘したのを受け、1987年3月、総務庁(現総務省)は啓発推進指針を発表、5年を時限とする「地域改善対策特定事業に係る国の財政上の特別措置に関する法律」(地対財特法、昭和62年法律第22号)が制定された。地対財特法は1992年(平成4)改正のうえ5年間延長され、1997年3月、15事業の残務処理的施策をさらに5年間存続させ、特別措置としての国政レベルにおける同和事業は基本的に終結した。その後も従来の同和事業を引き続き実施している地方自治体は少なからず存在したが、「同和」をめぐる利権あさりに対する世論の厳しい批判や財政難のなかで「同和」を優先する自治体当局者の態度に対する住民の強い反対によって、今日、同和事業を継続している自治体は激減している。
1996年12月、人権擁護施策推進法が地対財特法と入れ替わりに、5年の時限立法として制定され、1997年3月より施行された。また同法に基づき、法務省内に人権擁護推進審議会が設置されたが、2002年3月、同法の失効により解散した。
[成澤榮壽]