同和教育(読み)ドウワキョウイク

デジタル大辞泉 「同和教育」の意味・読み・例文・類語

どうわ‐きょういく〔‐ケウイク〕【同和教育】

被差別部落の人々に対する差別と偏見を撤廃するために行われるいっさいの教育的活動。あらゆる差別の撤廃と人権の確立を目ざす。

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共同通信ニュース用語解説 「同和教育」の解説

同和教育

明治以前の身分階層に基づく差別が色濃く残る中、生活水準が低く学校を長期欠席していた同和地区(被差別部落)の子どもに対する学力保障が主な目的で1950年ごろに始まり、教科書無償化を求める全国的な運動などにつながった。当事者側からは解放教育とも呼ばれる。国民に対し、同和問題に関する知識を深め差別の解消を求める人権啓発の側面も持ち、現在でも多くの学校で理念を継承した教育が実践されている。

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精選版 日本国語大辞典 「同和教育」の意味・読み・例文・類語

どうわ‐きょういく‥ケウイク【同和教育】

  1. 〘 名詞 〙 日本の社会の中に根強く残っている身分差別とそれに結びつく貧困から被差別部落の人々の解放をはかるため、ひろくすべての国民を対象として行なわれる教育。学校教育社会教育両面がある。第二次世界大戦以前の融和教育の妥協性、観念性を克服して、人権意識の確立と具体的施策の充実を目ざす教育。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「同和教育」の意味・わかりやすい解説

同和教育
どうわきょういく

部落問題の解決にかかわって組織された教育活動。

由来

第二次世界大戦前、部落問題の解決にかかわって組織された教育は、当初融和教育とよばれていた。融和教育は、部落住民の自主的組織として創立された全国水平社(1922年)とその運動の発展に対応して支配者側によって発想されたもので、1927年(昭和2)~1928年ごろに成立した。

 融和教育は、1937年の日中戦争の開始とそれに伴う戦時体制の急速な確立という事態にファッショ的に変質させられ、文部省(現文部科学省)の『国民同和への道』(1942年)の発刊以来、同和教育という名称に変えられた。それは、「同胞一和」の名のもとに部落住民をいっそう徹底して戦争に動員するためであった。

 第二次世界大戦後、日本国憲法と教育基本法に基づいて部落問題の解決を進めようとした教師たちが、同和教育ではなく、責善教育(和歌山県)、民主教育(岡山県)、部落解放の教育などとよんだのは、こうした歴史的事情が影響していた。しかし、1953年に全国同和教育研究協議会(全同教)が結成され、全国的に教師の研究活動が発展していくにしたがって、同和教育という名称がしだいに定着していった。

[梅田 修]

概観

重要なことは名称ではなく、その中身にある。第二次世界大戦後の同和教育は、1960年代までに部落住民や子供の願いにこたえながら次のような成果をあげてきた。

 第一は、子供の教育権の実質的な保障に取り組んできたことである。長期欠席・不就学の子供をなくし(教育の機会均等の保障)、教科書無償の実現に寄与し(教育条件の改善)、低学力の克服を進め(学習権の保障)、就職差別反対に取り組んできた(就職時における平等権の保障)。

 第二は、生活と教育の結合という原則にしたがって、教育内容・方法のあり方を探求してきたことである。子供の生活と願いを綴らせ、共感と相互理解を育てるという生活綴り方教育を重視し、「本当のことを、わかりやすく、生活と結びつけて」教える教科指導、生活と学習の要求を組織する基礎としての集団づくりに取り組んできた。

 第三は、子供の人権を保障する主体の側の民主主義的なあり方を問題にしてきたことである。基本的人権に関する教職員の理解の意義、教職員集団における民主的な内部規律、学校の自主性の堅持と地域住民との協力のあり方など貴重な経験を蓄積してきた。

 しかし、1970年代以降は、部落解放運動の矛盾の顕在化という事態のなかから登場してきた解放教育や、同和対策事業に伴って強化されてきた特別対策としての同和教育などによって、事態は複雑に推移することになった。

[梅田 修]

現状と課題

1990年代に入って、部落と部落の子供をめぐる状況はいっそう改善された。部落に残されている教育課題は、個別的な性格・経済格差などの階層的な性格を帯びてきており、同和教育という独自的呼称を必要とする実態的根拠は基本的には消滅したといってよい。

 一方、同和対策事業特別措置法(1969年)以来実施されてきた特別対策(国)の終結にかかわって、政府関係機関からは同和教育にかわって人権教育が提起された(1996年)。さらに、「人権教育及び人権啓発の推進に関する法律」(2000年)が制定されるなど、同和教育から人権教育への転換が図られており、新たに人権教育のあり方が問われてきている。

[梅田 修]

『部落問題研究所編・刊『部落問題の教育史的研究』(1978)』『西滋勝著『同和教育の研究』(1981・部落問題研究所)』『梅田修著『「人権教育」のゆくえ――「同和教育」転換の顛末』(1997・兵庫部落問題研究所)』『梅田修著『人権教育の検証――同和教育からの転換の帰結』(2003・部落問題研究所)』『後藤直・萩本善三・井川勝編著『同和教育実践――新たな人権教育の創造』(2005・ミネルヴァ書房)』『法務省・文部科学省編『人権教育・啓発白書』各年版(日経印刷)』

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改訂新版 世界大百科事典 「同和教育」の意味・わかりやすい解説

同和教育 (どうわきょういく)

自由・平等・友愛という近代社会の民主主義の原理に反する部落差別から,日本人を解き放つ教育の営み。そのためには,(1)教育の機会,教育条件,進路をめぐる部落差別を解消し,(2)(〈同和奨学金〉〈同和加配教員〉等の措置により)差別によってつくりだされる被差別部落民(生徒)の学力不振,〈非行〉や劣等意識,退嬰的(たいえいてき)人格を打破し,(3)日本人を,部落問題についての科学的認識をもち,差別を許さぬ人権意識をもった民主的主体として形成することが必要である。その条件としては,(1)社会教育,学校教育,家庭教育の全教育分野において同和教育に取り組み,(2)同和教育と部落解放運動,教育実践と教育行政教育運動が,互いの自立性・相対的独自性を積極的に認めあいながら,隔意なき相互批判をとおして,互いに連帯をはかっていかなければならない。

 教育をめぐる部落問題は〈部落学校〉に始まる。1872年(明治5)の〈学制〉実施はいわゆる〈解放令〉後でありながら,被差別部落児童は同一町村内の小学校就学を忌避・排除され,そのため教育条件の劣悪な〈部落学校〉の設立が余儀なくされ,小規模部落では〈教育棄民〉となった。

 日本の近代教育は,一般の小学校とは別に,小学簡易科,夜間小学校など一連の貧民学校体系を内包しており,加えて女性,部落民,障害者,アイヌ民族,僻地(へきち)住民,在日朝鮮人,旧植民地人民等への差別・抑圧・迫害の教育を内包するという差別の二重構造を構成していた。これらの差別や抑圧の存在が日本人一般の天皇制・国家主義・排外主義等への拝跪(はいき)を助け,その人間形成を歪めてきた。その意味で部落問題を問うことは,そのまま日本の近代社会と教育の総体を問うことになる。

 部落学校は,部落民が武装までしてたたかった場合を含め,善意の関係者の努力や経済合理主義等により,始期は各地まちまちであるが,牛歩の歩みで徐々に一般の学校に統合されていった。統合はあらわな学校自体の差別の解消を意味するが,部落児童にとっては,統合は日常的な教員と級友による無数の直接的な差別との対面を意味する(その象徴は座席差別)。1922年創立の水平社が開始した差別糾弾闘争は,積年の差別・侮辱・迫害への怒りを〈てこ〉とする〈人間観奪還〉のたたかいであった。

 教育立法の勅令主義に象徴されるように,客体としての国民=臣民が義務教育をとおして国家の政治意志を日常的に強制された第2次大戦前にあっては,部落民にとって,義務教育の拒否(盟休)は国家と教育への強力な意志表示であり,水平運動への参加は,そのまま教育=自己変革の過程となった。少年少女水平社やピオネールを組織した水平運動は,盟休児童の〈俺達の学校〉のため〈教育プラン,教材等を予め準備〉する必要性にも目覚めはじめていた。

 水平運動が軍国主義教育や天皇制の批判を開始すると,それへの権力の対応として,1920年代末から〈水平運動ニ行カセナイヤウニスル〉ための〈部落対策〉=〈懐柔・去勢〉教育という本質をもった〈融和教育〉が成立する。もともと融和の運動や事業が部落差別をたんなる〈因習的差別観念〉の存続ととらえ,その〈芟除(せんじよ)〉を教育に期待した点からも,融和教育の成立は必然であった。37年の日中戦争の開始で水平運動がたたかいの荆冠旗(けいかんき)を下ろすと,融和教育は侵略戦争とファシズムのための〈同和教育〉に変質した。41年に中央融和事業協会が同和奉公会に改組されると,翌年,文部省は《国民同和への道》を刊行し,〈満蒙開拓義勇軍〉や枯渇した労働力補給等に部落民を〈同和奉公〉させる教育政策を提示した。この忌まわしい歴史のゆえに,〈同和教育〉は戦後の一時期〈責善教育〉〈民主教育〉等に改称された県もあり,60年代以降は一般に〈部落解放の教育〉と呼ばれた。

 長欠,不就学の解消で再出発した〈同和教育〉は,1948年部落問題研究所発足,53年全国同和教育研究協議会結成,50年代末勤評反対闘争等をへて,国民教育運動の一翼を担う地歩を確立した。しかし,65年部落解放同盟(解同)京都府連の分裂,翌年文化厚生会館事件等に始まる部落解放運動の不幸な分裂(1970年解同正常化全国連絡会議,76年全国部落解放運動連合会)に対応して,〈同和教育〉も,67年全国解放教育研究会発足,68年部落解放研究所発足,69年矢田差別事件,71年《解放教育》誌創刊,73年《同和教育運動》誌創刊,74年八鹿(ようか)高校事件などの経緯をへて,現在,〈解放教育〉〈自主的民主的同和教育〉〈官制同和教育〉の対立・相克の渦中にある。

 絶対主義天皇制,寄生地主制等の解体,教育〈民主化〉等一連の戦後改革により,部落問題解決の社会経済的条件は大幅に前進した。しかもなお差別が残存する原因としては,権力による意図的な(解放運動の分裂策動を含む)差別政策に加えて,独占資本主義体制の〈多層的格差構造〉下の〈労働の疎外〉による労働者の〈人間の類的本質存在〉の疎外状況に着目しなければならない。また,排他的競争をあおる受験戦争と,管理主義教育の加重が,〈いじめっ子〉現象に象徴されるように,生徒の連帯を阻害し,〈同和教育〉推進を困難にしている事実も直視しなければならない。
同和対策 →被差別部落 →部落解放運動
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百科事典マイペディア 「同和教育」の意味・わかりやすい解説

同和教育【どうわきょういく】

被差別部落の解放をめざして行われている教育実践・教育行政・教育運動の総称。第2次大戦前から行われていたが,大戦後部落解放運動の一環として位置づけられて質的に変化,進展した。教育の内容には二側面あり,一つは被差別部落出身者を対象に差別の実態と取り組み,差別を生み出すものと対決する主体性を育成することであり,一つは出身者であるか否かを問わず,部落問題に対する認識を深め,人権意識を高める側面である。
→関連項目識字運動

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「同和教育」の意味・わかりやすい解説

同和教育
どうわきょういく

被差別部落問題の解決をはかるために行われる教育活動。部落解放教育または解放教育とも呼ばれる。その範囲は,小・中・高等学校,さらには大学での被差別部落問題,人権問題に関する教育,学習だけでなく,一般市民を対象とした啓発活動,被差別部落の人々や子どもたち自身による教育,学習活動まで大きな広がりをもっている。根強い差別意識の克服,差別の解消にその目的がある。

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世界大百科事典(旧版)内の同和教育の言及

【部落解放運動】より

…また,各地の学校教育の場における差別事件を通して,被差別部落の学童が義務教育の過程においてさえ差別を受け,進学,就職などの進路を保障されていない実態が明らかにされた。52年,広島県の吉和中学校における差別事件を契機に,同和教育は被差別部落の学童の進路を保障し,教育行政の責任と課題を提起していく運動として質的な転換をとげ,53年には全国同和教育研究協議会が結成された。 解放委員会は1955年,大衆組織にふさわしい部落解放同盟(解放同盟)と改称した。…

※「同和教育」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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