江戸初期の医師。京都の人。名護屋玄医とも書く。字(あざな)は閲甫(えっぽ)または富潤といい、宜春庵(ぎしゅんあん)、丹水子、桐渓と号す。儒学を羽州宗純について学び、周易と占法をよくしたが、のち医学を志した。中国明(みん)の喩嘉言(ゆかげん)(1585―1664ころ)の『傷寒尚論』を読んでこれに共鳴し、医学復古の説を唱え、当時盛んであった後世(ごせい)派の医説、李(り)・朱の医方を排して、後漢(ごかん)の張仲景(ちょうちゅうけい)の『傷寒論』を紹介し、その実証精神に戻ることを主張した。これをもって彼は古医方派の始祖とされる。生来、多病で晩年にはつねに病床にあったが、多くの患者に接し、多数の医書を著した。『難経註疏(ちゅうそ)』『金匱(きんき)註解』『医方問余(もんよ)』『丹水子』『食物本草』などが知られている。
[大鳥蘭三郎]
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1628.3.21~96.4.18
江戸前期の京都の古方派の医師。字は閲甫,号は丹水子・宜春庵。京都生れ。中国明末の1646年に上梓された喩嘉言(じゅかげん)著「尚論篇」を読み,治病の原点を後漢の張仲景著とされる経験的処方を主とした「傷寒論」におくことを悟り,はじめて古医方を唱導した。儒学における伊藤仁斎らの古学派とともに古医方隆盛の端緒をひらいた。著書「難経註疏(ちゅうそ)」「金匱(きんき)要略註解」「医方問余」。墓所は京都市上京区の浄福寺。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
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…また縄文中・後期の側切歯抜去は,晩期のあり方からすると婚姻関係成立時に左右を抜き分けた可能性がある。【春成 秀爾】
【医療としての抜歯】
医療としての抜歯は,日本では名古屋玄医の著した《医方問余》(1679)に記載されており,ある薬剤を歯肉に用い,歯を弛緩させて脱落させたという。一方,西欧では,古代ギリシアですでに抜歯鉗子が用いられており,てこ(梃子)は11世紀ころから用いられ,16世紀ころの抜歯鉗子とてこは現代のものと大差がない。…
※「名古屋玄医」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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