中国、戦国末の潁川(えいせん)郡陽翟(ようたく)県(河南省)出身の大商人。のち政治家として秦(しん)の政治に関与した。秦の公子子楚(しそ)が、太子にたてられる見込みもなく趙(ちょう)の都邯鄲(かんたん)に人質として送られていたのに目をつけ、子楚を利用して秦の政権に参与しようと謀った。そこで子楚の父、安国君の寵愛(ちょうあい)する華陽夫人を介して子楚を嫡嗣(ちゃくし)とする約束を取り付ける一方で、すでに自分の子を宿している愛姫を偽って子楚に献じ、政(始皇帝)を生ませた。やがて計画どおり子楚が秦王(荘襄(そうじょう)王)となってから、秦王政のときに嫪(ろうあい)の乱に連座して蜀(しょく)に流されそうになり自殺するまで、呂不韋は丞相(じょうしょう)、文信侯として秦の政治を左右した。彼は傘下の賓客たちに当時の儒、墨、法、道、陰陽五行などの諸子百家の思想を『呂氏春秋』としてまとめさせたが、彼自身とくに道家や陰陽五行家に傾倒していたようである。このことは、彼の死後法家の李斯(りし)が秦の天下統一前後の政策に加わっていくのに比べて考えると、秦国の政治が当初は法家的立場をとっていなかったことを意味しており、興味深い。
[鶴間和幸]
中国,戦国末の陽翟(河南省開封市南)出身の商人。趙で人質となっていた秦の子楚(荘襄王)擁立の裏工作をする。邯鄲(かんたん)の舞姫と関係を結んでいたが,子楚が見初めると身ごもっていたのを隠して与えた。やがて生まれたのが始皇帝であるという。荘襄王の下で丞相,始皇帝が即位すると相国となり,仲父の称号を与えられた。太后となった舞姫との関係は依然として続き,隠蔽のため送り込んだ嫪(ろうあい)がもとで発覚し自殺した。編書として《呂氏春秋》がある。
執筆者:冨谷 至
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…26巻。戦国末の四君(信陵君,春申君,平原君,孟嘗君)が食客を集め勢力を有していたことに対抗して,秦の丞相呂不韋(りよふい)が食客を集め,彼らに編纂させた。前239年ころに完成,呂不韋は都の市門にそれをかけ,一字でも増損できる者がおれば千金を与えると言ったとの話がある。…
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