呉楚七国の乱(読み)ゴソシチコクノラン

デジタル大辞泉 「呉楚七国の乱」の意味・読み・例文・類語

ごそしちこく‐の‐らん【呉楚七国の乱】

前154年、諸侯領土を削減した前漢景帝に対し、を中心にちょう膠西こうせい・膠東・菑川しせん済南の7王国が起こした反乱。3か月で鎮定され、諸王侯の力は弱まり、皇帝中央集権的支配体制が確立した。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「呉楚七国の乱」の意味・わかりやすい解説

呉楚七国の乱
ごそしちこくのらん

中国、前漢、景帝の時代の紀元前154年、呉王濞(び)を謀主とし、楚王戊(ぼう)、膠(こう)西王卬(こう)、膠東王熊渠(ゆうきょ)、菑川(しせん)王賢(けん)、済南王辟光(へきこう)、趙(ちょう)王遂(すい)ら劉(りゅう)氏の宗族(そうぞく)が中央政府に対して起こした反乱。漢初に郡国制が採用され、劉氏宗族と功臣が封国されたが、異姓の功臣諸侯は高祖劉邦の在世中にほとんどとりつぶされた。第5代の文帝代には、残った劉氏の諸侯勢力が強大となり、中央集権策をとる政府にとって障害となってきた。第6代の景帝代になって、法家思想をもつ鼂錯(ちょうそ)が用いられ、分権的な諸侯を統制した。王国の削弱策として「推恩(すいおん)の令」を立案、実行に移した。この政策実施中の前155年、楚王、趙王の有する領土のうち各1郡と膠西王のもつ6県が削られ、呉王もまた2郡を削る通知を受けた。諸王はこの措置を不服として反乱を決意した。中央政府は反乱開始の報に接し、周亜夫、欒布(らんふ)、竇嬰(とうえい)ら有力な将軍を派して鎮圧に努めたが、諸王の力は侮りがたく、ために政府は鼂錯を責任者として処刑し、諸王の慰撫(いぶ)に努めたが成果はなかった。戦術にたけていた周亜夫が呉王を破るに及んで、漢朝優位が決まった。この乱を契機郡県制が発展していく。

[好並隆司]

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「呉楚七国の乱」の意味・わかりやすい解説

呉楚七国の乱
ごそしちこくのらん
Wu-chu qi-guo; Wu-ch`u ch`i-kuo

中国,前漢(→)の景帝のとき呉など 7国が起こした乱。漢の高祖は劉氏一族や功臣など諸侯王を各地封じ郡県制と併用して郡国制をしいたが,その末年には,異姓諸王をほとんど滅ぼし,劉氏一族のみを王とした。景帝のとき,鼂錯が御史大夫となり,中央集権を強化すべく諸侯王の領地削減を実施に移すと,前元3(前154)年呉王がまず反乱を起こし,続いて済南王,斎川王,膠東王,趙王,楚王,膠西王の 6王がこれに続き,南越や匈奴もこれに荷担した。景帝は鼂錯を死刑にしたが,反乱はしずまることなく続いた。しかし,約 3ヵ月後,呉王らが殺され乱は鎮圧された。以後,諸侯王の領土は削られ,種々の禁令が設けられて,王とは名のみで,租税を徴収するだけになった。

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改訂新版 世界大百科事典 「呉楚七国の乱」の意味・わかりやすい解説

呉楚七国の乱 (ごそしちこくのらん)

中国,前漢景帝期(前157-前141)の封建諸王の内乱。漢は秦の郡県制を改め,一族を諸侯王に封じて各地に国を置いた(郡国制)。諸侯王には広大な封地と国内の統治権が与えられ,しだいに強大化し,独立国の様相を呈した。景帝は鼂錯(ちようそ)の意見で封地削減策を実施,これに反発した呉王劉濞(りゆうび)ら7ヵ国の諸侯王が挙兵,数ヵ月後に平定された(前154)。ついで政府は封地の細分化,統治権の制限を行い,実質上郡県制が実現する。
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山川 世界史小辞典 改訂新版 「呉楚七国の乱」の解説

呉楚七国の乱(ごそしちこくのらん)

前漢の景帝のとき(前154年)の内乱。漢朝は郡国制にのっとり,一族の子孫を各地に封じて王侯としたが,諸王の勢力は強大で,景帝のとき王国は16国を数え,特に広大な領土を有する呉,楚,斉は中央に反抗的であった。その抑圧に苦心した漢朝は前154年諸王の領土を削った。これに対して呉王濞(び)は楚,趙(ちょう),膠西(こうせい),膠東,菑川(しせん),済南の6王とともに兵を起こした。官軍は呉と楚の糧道を遮断し,反乱は3カ月で鎮定された。この結果,諸王侯の領土は細分され勢力は弱体化し,中央政府の統制力はより強化された。

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百科事典マイペディア 「呉楚七国の乱」の意味・わかりやすい解説

呉楚七国の乱【ごそしちこくのらん】

中国で前漢景帝の時(前154年)起こった封建諸侯の反乱。景帝は諸侯王の勢力を抑圧するため,その領地を削った。これに対し,呉王劉【び】(りゅうび)を中心とする7王が同盟して反乱を起こしたが,3ヵ月で平定され,かえって諸侯の実権は奪われ,の中央集権化が推進された。
→関連項目郡国制

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旺文社世界史事典 三訂版 「呉楚七国の乱」の解説

呉楚七国の乱
ごそしちこくのらん

前154年,前漢の景帝のときに起こった諸侯の反乱
漢では直轄地に中央集権的な郡県制を施行し,同時に一族・功臣を各地に諸侯として封じた(郡国制)。皇帝が古代帝国の専制君主としての地位を確立してくると,功臣についで一族の諸侯を抑圧する必要が生じ,景帝のときから実行したが,これに対し,呉・楚・趙など7国の諸侯が反抗した。乱は3か月で鎮圧され,以後漢の中央集権体制が確立された。

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世界大百科事典(旧版)内の呉楚七国の乱の言及

【漢】より

…万事に慎重な文帝は対決を回避したが,景帝は鼂錯の建議を採用して諸王の領地を削る方針を定めると,呉王劉濞(りゆうび)ら7ヵ国の王は連合して漢に反旗をひるがえした。前154年の呉楚七国の乱である。この乱は諸王の周到なる準備にもかかわらず,政府軍によって3ヵ月で平定された。…

※「呉楚七国の乱」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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