中国、漢代の行政制度。中国では春秋戦国時代に、一族、功臣に土地、人民を賜与して間接統治を行う封建制にかわって、官僚を通して中央集権的に直接統治する郡県制が出現した。秦(しん)の始皇帝は郡県制という新しい統治形態を採用して全国を統一したが、すぐに崩壊してしまった。短命の秦に続いて王朝を建てたばかりの漢帝国にとって、広大な領域を中央集権的に治めることは不可能であった。前漢初めに皇帝の直轄地とされたのはわずかに15郡であり、残りの35郡は功臣や同族を諸侯王に封建し、その自治に任された。諸侯王に与えられた封地は郡とはよばれず、国といった。こうした郡県制と封建制の二重統治体制を郡国制とよぶ。しかし、当初は賦税、徭役(ようえき)徴収権、官吏任命権(諸侯国の丞相(じょうしょう)は中央の任命)、発兵権などを掌握し、中央と同じ官僚機構や独自の年号をもっていた諸侯国も、景帝期の呉楚(ごそ)七国の乱(前154)が鎮圧されて以降、中央権力に抑えられ、諸侯国は残されても実質は郡県制に移行していった。
[鶴間和幸]
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漢の高祖(劉邦(りゅうほう))が始めた地方統治制度。秦の郡県制統治の失敗と,秦末の動乱以来復活の傾向にあった封建制を考慮して,郡県と封建を併用したもの。直轄の地(西部)には郡県制をしき,遠隔地(東部)には王侯国をつくって一族(同姓),功臣(異姓)を封じた。しかし異姓王侯国は高祖一代でほとんど除かれ,同姓王侯国は呉楚(ごそ)七国の乱をへて武帝の頃には縮小され,事実上の郡県制となった。
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…漢の領土拡大にともなって周辺の諸民族を開化して周辺諸国の勃興と成長をうながし,漢族と周辺諸民族で構成される東アジア世界の形成を準備したことも注目される。
[郡国制と中央集権体制の確立]
劉邦(高祖)は前202年に皇帝の位につくと,秦の統治方式を踏襲して中央集権的な官僚制と郡県制を施行した。すなわち皇帝の下に行政・軍事・監察の最高責任者として丞相・太尉・御史大夫のいわゆる三公をおき,政務分担機関として太常(儀礼祭祀),光禄勲(宮殿警備),衛尉(宮門警備),太僕(車馬),廷尉(司法),大鴻臚(外交),宗正(宗室),大司農(国家財政),少府(帝室財政)の九卿(きゆうけい)(九寺)をおいて中央政府を構成した。…
…この郡県には中央の丞相(民政),太尉(軍政),御史(監察)に対応して,郡守,郡尉,監御史と県令,県尉,県丞の官が置かれた。 この改革があまりに性急であったため,秦をついだ漢は封建制の封国を加味した郡国制を敷き,郡と同格の王国,県と同格の侯国を設けたが,武帝の時代には実質的には郡県制と大差なくなった。紀元2年(元始2)の統計では郡国103(王国20),県など1578(侯国241)を数える。…
… 劉邦は〈寛大長者〉とされ,秦代の極端な法罰主義の弊害にかんがみ,諸事万端につけ寛宥と簡易を政治理念とした。中央政府の官僚機構は秦制を踏襲したが,地方政治では郡県と封建とを併用した郡国制度を採用した。諸侯王には大幅な自治を付与し,その封国はあたかも半独立国のごとき様相を呈していた。…
…中国,前漢景帝期(前157‐前141)の封建諸王の内乱。漢は秦の郡県制を改め,一族を諸侯王に封じて各地に国を置いた(郡国制)。諸侯王には広大な封地と国内の統治権が与えられ,しだいに強大化し,独立国の様相を呈した。…
※「郡国制」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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