精選版 日本国語大辞典 「楚」の意味・読み・例文・類語
そ【楚】
すわい すはい【楚】
すばえ【楚】
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①〔春秋・戦国〕?~前223 戦国の七雄の一つ。長江中流域を本拠とし,前7世紀以来北方に進出,春秋時代中期に五覇の一人荘王(そうおう)(在位前613~前591)を出してより,戦国時代中期の威王(在位前339~前329)まで,斉,晋,秦の諸国と覇を争った。前278年国都郢(えい)(湖北省)を秦に攻略されて以後,中心は北東に移動,前241年安徽(あんき)省寿春に遷都,ついに秦に滅ぼされた。楚は古くから王を称しており,中原の諸侯国とかなり風俗・言語を異にしていた。戦国末の『楚辞』はその地方色を示す文学作品。また寿春,長沙などに戦国時代の楚墓が発掘されている。
②〔五代十国〕927~951 五代十国の一つ。長沙を中心に湖南に拠った政権。馬殷(ばいん)が907年に後梁(こうりょう)から楚王に封じられて建国。茶栽培を奨励し,独自の貨幣制度を行って富を蓄えたが,政権は不安定で,951年南唐に滅ぼされた。
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中国,春秋時代の侯国。戦国七雄の一つ。?-前223年。殷代には河南南西部にあり,西周時代には丹陽(湖北秭帰(しき)県)に都を置き,周と対峙し,周昭王の征伐を受けた。のち都を郢(えい)(湖北江陵県)に移す。春秋時代には湖北・河南南部を収め,北の晋と対立,前597年荘王は晋を泌(河南)で破り,一時覇権を握った。戦国時代にも南方の雄として,北の諸国と対立したが,秦の圧迫を避け,都を陳(河南淮陽(わいよう)県),鉅陽(きよよう)(安徽阜陽県),寿春(安徽寿県)と東に移し,前249年には魯を滅ぼした。しかし秦に抗することができず,前223年に滅ぼされた。《楚辞》の作者として知られる屈原は楚王の一族で,楚文化を代表する。
→春秋戦国時代
執筆者:伊藤 道治
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…前半の大半の期間のことが魯国の年代記《春秋》に,後半のことが《戦国策》とよぶ書物に書かれているからである。前453年で二分するのは,春秋の大国晋の家臣であった韓・魏・趙の3代が主家を三分独立し,晋は事実上滅亡し,以後戦国の七雄といわれる韓・魏・趙・楚・斉・燕・秦の対立抗争の時代となるからである。
[歴史]
《史記》によれば,春秋初めには140余の小国が分立していたが,勢力のあったのは,魯(山東省曲阜),斉(山東省臨淄(りんし)),曹(山東省定陶),衛(河南省淇県,のち滑県),鄭(河南省新鄭),宋(河南省商丘),陳(河南省淮陽(わいよう)),蔡(河南省上蔡,のち新蔡,さらに安徽省鳳台),晋(山西省曲沃),秦(陝西省鳳翔,のち咸陽),楚(湖北省江陵,のち河南省淮陽,安徽省寿県),燕(北京市)の十二諸侯であり,洛陽には周王室があった。…
※「楚」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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