(読み)そ

精選版 日本国語大辞典 「楚」の意味・読み・例文・類語

そ【楚】

中国の国名
[一] 戦国七雄の一つ。揚子江中流域を領有し、戦国中期まで斉や晉などの諸国と覇を争った。のち秦の圧迫を受け本拠を東に移したが、前二二三年、秦に滅ぼされた。中原の諸国と風俗、言語を異にし、漢民族からは蛮夷の国とみなされた。戦国末の「楚辞」は地方色を示す文学作品として知られる。
[二] 隋末の六一六年、林士弘が江南・嶺南地方に建てた国。六二二年、唐に滅ぼされた。
[三] 五代十国の一つ。長沙を中心に湖南に拠った政権。許州(許昌)の人、馬殷が後梁から楚王に封ぜられて九〇七年に建国。九五一年、六代で南唐に滅ぼされた。
[四] 北宋滅亡後の一一二七年、金が宋の旧領に建てた国。一か月余で滅亡。

すわい すはい【楚】

〘名〙 (「ずわい」とも) 「すわえ(楚)」の変化した語。
史記抄(1477)一二「荊は、荊楚とて、薪の中の長いすわいぞ」
※六物図抄(1508)「標は長きスワイ也、長きスワイに是は仏弟子とかきしるいてしらするやうな心そ」

すばえ【楚】

〘名〙 ⇒すわえ(楚)

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デジタル大辞泉 「楚」の意味・読み・例文・類語

そ【楚】

中国の国名。
春秋戦国時代の国。戦国七雄の一。揚子江中流域を領有し、都はえい春秋中期にはなどを圧迫し、と対立。荘王中原覇者となったが、前223年、に滅ぼされた。
五代十国の一。許州の馬殷ばいん後梁から招じられて、927年に建国。951年に南唐に併合されて滅亡。
北宋滅亡後の1127年、が宋の旧領に建国。1か月余りで滅亡。

そ【楚】[漢字項目]

人名用漢字] [音]ソ(漢) [訓]すわえ しもと
すっきりとしたさま。「楚楚清楚
苦しむ。痛む。「苦楚酸楚
中国古代の国名。「楚囚四面楚歌
[名のり]たか

すわえ〔すはえ〕【×楚/×楉/×杪】

《「ずわえ」「すばえ」とも》
木の枝や幹からまっすぐ伸び出た、若く細い小枝。すえだ。
「ほそき―をしてさし寄せむに」〈・二四四〉
刑罰に用いるむち。しもと。
つねに九百段の鉄の―もて打ちむ」〈霊異記・上〉

すばえ【×楚】

すわえ

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百科事典マイペディア 「楚」の意味・わかりやすい解説

楚【そ】

(1)中国,春秋時代(春秋戦国時代)の侯国。長江の中流域を本拠とし,前7世紀から北方に進出,荘王は前606年,との境上に至り,鼎(かなえ)の軽重を問うた。前597年には中原に覇を唱え,以来100年,北方のと南北に対立。戦国の七雄の一つとして重きをなしたが,に圧迫され,前223年滅ぼされた。(2)中国,五代十国の一つ。長沙を中心に湖南による。907年馬殷(ばいん)が後梁()から楚王に封ぜられて建国。951年南唐に滅ぼされたが,956年馬氏配下の周氏がいったん復興。これをが963年併合した。
→関連項目屈原長沙覇者

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山川 世界史小辞典 改訂新版 「楚」の解説

楚(そ)
Chu

①〔春秋・戦国〕?~前223 戦国の七雄の一つ。長江中流域を本拠とし,前7世紀以来北方に進出,春秋時代中期に五覇の一人荘王(そうおう)(在位前613~前591)を出してより,戦国時代中期の威王(在位前339~前329)まで,の諸国と覇を争った。前278年国都郢(えい)(湖北省)を秦に攻略されて以後,中心は北東に移動,前241年安徽(あんき)省寿春に遷都,ついに秦に滅ぼされた。楚は古くから王を称しており,中原の諸侯国とかなり風俗・言語を異にしていた。戦国末の『楚辞』はその地方色を示す文学作品。また寿春,長沙などに戦国時代の楚墓が発掘されている。

②〔五代十国〕927~951 五代十国の一つ。長沙を中心に湖南に拠った政権。馬殷(ばいん)が907年に後梁(こうりょう)から楚王に封じられて建国。栽培を奨励し,独自の貨幣制度を行って富を蓄えたが,政権は不安定で,951年南唐に滅ぼされた。

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改訂新版 世界大百科事典 「楚」の意味・わかりやすい解説

楚 (そ)
Chǔ

中国,春秋時代の侯国。戦国七雄の一つ。?-前223年。殷代には河南南西部にあり,西周時代には丹陽湖北秭帰(しき)県)に都を置き,周と対峙し,周昭王の征伐を受けた。のち都を郢(えい)(湖北江陵県)に移す。春秋時代には湖北・河南南部を収め,北の晋と対立,前597年荘王は晋を泌(河南)で破り,一時覇権を握った。戦国時代にも南方の雄として,北の諸国と対立したが,秦の圧迫を避け,都を陳(河南淮陽(わいよう)県),鉅陽(きよよう)(安徽阜陽県),寿春(安徽寿県)と東に移し,前249年には魯を滅ぼした。しかし秦に抗することができず,前223年に滅ぼされた。《楚辞》の作者として知られる屈原は楚王の一族で,楚文化を代表する。
春秋戦国時代
執筆者:

楚 (そ)
Chǔ

中国,五代十国の一つ。907-951年。木工出身の馬殷(ばいん)が湖南に建てた国。後から楚王に封ぜられ,その後も中原五代王朝に服属の態度をとって皇帝号を称さなかった。それは東に呉(南唐),南に南といった十国中の強国と境を接していたことによる。鉛鉄銭の鋳造や茶栽培の奨励など富国策にみるべきものがあるが,馬殷の20人を超える諸子間の権力争いが激しく,まもなく4勢力に分裂し,南唐の支配,馬氏配下の部将周行逢の自立を経て,宋に併合された。
執筆者:

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旺文社世界史事典 三訂版 「楚」の解説


①春秋戦国時代の国 ?〜前223
②五代十国の1つ 907〜951
③北宋滅亡後の1127年,金が宋の旧領に建てた王朝
現在の湖北省江陵 (こうりよう) 付近におこった。前8世紀に王号を称し,河南に領土を広げ,前7世紀末には荘王(在位前613〜前591)が春秋の五覇 (ごは) のひとりとなった。前506年,呉のために壊滅的打撃を受けたが,前4世紀初め悼 (とう) 王のとき強盛となり,中原の覇者となった。のち秦の圧迫を受け,前223年滅亡。
始祖馬殷 (ばいん) が長沙 (ちようさ) を本拠として建国。湖南全体と広西の北部を領有,富強を誇った。希範の死後,兄弟間の相続争いが続いて国力が衰え,南唐に滅ぼされた。
1か月余で滅亡。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「楚」の意味・わかりやすい解説


張邦昌」のページをご覧ください。

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世界大百科事典(旧版)内のの言及

【春秋戦国時代】より

…前半の大半の期間のことが魯国の年代記《春秋》に,後半のことが《戦国策》とよぶ書物に書かれているからである。前453年で二分するのは,春秋の大国晋の家臣であった韓・魏・趙の3代が主家を三分独立し,晋は事実上滅亡し,以後戦国の七雄といわれる韓・魏・趙・楚・斉・燕・秦の対立抗争の時代となるからである。
[歴史]
 《史記》によれば,春秋初めには140余の小国が分立していたが,勢力のあったのは,魯(山東省曲阜),斉(山東省臨淄(りんし)),曹(山東省定陶),衛(河南省淇県,のち滑県),鄭(河南省新鄭),宋(河南省商丘),陳(河南省淮陽(わいよう)),蔡(河南省上蔡,のち新蔡,さらに安徽省鳳台),晋(山西省曲沃),秦(陝西省鳳翔,のち咸陽),楚(湖北省江陵,のち河南省淮陽,安徽省寿県),燕(北京市)の十二諸侯であり,洛陽には周王室があった。…

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