デジタル大辞泉
「楚」の意味・読み・例文・類語
すわえ〔すはえ〕【×楚/×楉/×杪】
《「ずわえ」「すばえ」とも》
1 木の枝や幹からまっすぐ伸び出た、若く細い小枝。すえだ。
「ほそき―をしてさし寄せむに」〈枕・二四四〉
2 刑罰に用いるむち。しもと。
「毎に九百段の鉄の―もて打ち迫む」〈霊異記・上〉
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すわえすはえ【楚・&JISEB91;・杪】
- 〘 名詞 〙 ( 後世「ずわえ」とも )
- ① 木の枝や幹から、まっすぐに細く長く伸びた若い小枝。すわい。ずわい。すわえぎ。
- [初出の実例]「細きすはえをさしよせんに」(出典:能因本枕(10C終)二二五)
- 「白浄衣に立烏帽子著たる老翁六人、梅の楉(スハ)へに巻数(くはんじゅ)付て」(出典:源平盛衰記(14C前)二八)
- ② 刑罰に用いる道具。むち。しもと。また、それで打つこと。
- [初出の実例]「笞(ほそきスワヱ)杖(ふときスワヱ)」(出典:日本書紀(720)大化二年三月(北野本訓))
- 「『桃ずはへしてよく打たばや』などいひあへり」(出典:宇津保物語(970‐999頃)蔵開下)
- ③ 舞楽で、舞人が持つ白い木の棒。〔龍鳴抄(1133)〕
そ【楚】
- 中国の国名。
- [ 一 ] 戦国七雄の一つ。揚子江中流域を領有し、戦国中期まで斉や晉などの諸国と覇を争った。のち秦の圧迫を受け本拠を東に移したが、前二二三年、秦に滅ぼされた。中原の諸国と風俗、言語を異にし、漢民族からは蛮夷の国とみなされた。戦国末の「楚辞」は地方色を示す文学作品として知られる。
- [ 二 ] 隋末の六一六年、林士弘が江南・嶺南地方に建てた国。六二二年、唐に滅ぼされた。
- [ 三 ] 五代十国の一つ。長沙を中心に湖南に拠った政権。許州(許昌)の人、馬殷が後梁から楚王に封ぜられて九〇七年に建国。九五一年、六代で南唐に滅ぼされた。
- [ 四 ] 北宋滅亡後の一一二七年、金が宋の旧領に建てた国。一か月余で滅亡。
すわいすはい【楚】
- 〘 名詞 〙 ( 「ずわい」とも ) 「すわえ(楚)」の変化した語。
- [初出の実例]「荊は、荊楚とて、薪の中の長いすわいぞ」(出典:史記抄(1477)一二)
- 「標は長きスワイ也、長きスワイに是は仏弟子とかきしるいてしらするやうな心そ」(出典:六物図抄(1508))
ずあえ【楚・&JISEB91;】
- 〘 名詞 〙 ( 「すわえ」の変化した語 ) 細長くまっすぐにのびた若い小枝。ずあい。
- [初出の実例]「彼奴を生し置く時は、所謂幹を仆して嫩枝(ズアヱ)を遺すの道理」(出典:自由太刀余波鋭鋒(1884)〈坪内逍遙訳〉二)
ずあい【楚・&JISEB91;】
- 〘 名詞 〙 =ずあえ(楚)
- [初出の実例]「目立ちのずあいがつういつい」(出典:浄瑠璃・菅原伝授手習鑑(1746)四)
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普及版 字通
「楚」の読み・字形・画数・意味
楚
人名用漢字 13画
[字音] ソ
[字訓] しば・むち・くるしむ
[説文解字]
[甲骨文]
[金文]
[字形] 形声
声符は疋(しよ)。〔説文〕六上に「叢木なり。一名、なり」とあって、叢木(にんじんぼく)を本義とする。〔詩、周南、漢広〕「言(ここ)に其の楚を刈る」、〔詩、王風、揚之水〕「束楚をさず」、〔詩、小雅、楚茨〕「楚楚たるものは茨(し)」など、棘(けいきよく)の類をいう。これを以て鞭笞(べんち)とするので、またむちの意となる。西周中期の金文〔(じき)〕に「王の南征に從ひ、楚を伐つ」とあって楚を連言しており、楚をまたということもあった。〔春秋〕には、荘公以前は、僖公以後は楚という。巫俗のさかんなところで、のち〔楚辞〕の文学がその地に生まれた。
[訓義]
1. にんじんぼく、とげのある木、しば、ばら。
2. むち、しもと。
3. うつ、いたむ、くるしむ、かなしむ。
4. (そ)に通じ、つらなる。
5. 楚楚、茂る、うつくしい。
6. 国の名。
[古辞書の訓]
〔名義抄〕楚 イタム・タカシ・カカル・ウソ(ツ)・スハヘ・ヰル 〔立〕楚 カカル・イヤシ・シタシ・タカシ・タシナム・イタム・シモト
[熟語]
楚雨▶・楚烏▶・楚雲▶・楚越▶・楚歌▶・楚館▶・楚顔▶・楚狂▶・楚棘▶・楚吟▶・楚潔▶・楚志▶・楚詞▶・楚囚▶・楚辱▶・楚水▶・楚捶▶・楚声▶・楚切▶・楚楚▶・楚惻▶・楚撻▶・楚竹▶・楚鳥▶・楚痛▶・楚毒▶・楚▶・楚▶・楚俘▶・楚夢▶・楚▶・楚腰▶・楚謡▶・楚瀝▶・楚弄▶
[下接語]
哀楚・夏楚・刈楚・冠楚・含楚・窮楚・翹楚・苦楚・楚・激楚・三楚・酸楚・辛楚・薪楚・楚・凄楚・清楚・束楚・惻楚・痛楚・披楚・榜楚・楚
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楚【そ】
(1)中国,春秋時代(春秋戦国時代)の侯国。長江の中流域を本拠とし,前7世紀から北方に進出,荘王は前606年,周との境上に至り,鼎(かなえ)の軽重を問うた。前597年には中原に覇を唱え,以来100年,北方の晋と南北に対立。戦国の七雄の一つとして重きをなしたが,秦に圧迫され,前223年滅ぼされた。(2)中国,五代十国の一つ。長沙を中心に湖南による。907年馬殷(ばいん)が後梁(梁)から楚王に封ぜられて建国。951年南唐に滅ぼされたが,956年馬氏配下の周氏がいったん復興。これを宋が963年併合した。
→関連項目越|屈原|長沙|陳|覇者|魯
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楚(そ)
Chu
①〔春秋・戦国〕?~前223 戦国の七雄の一つ。長江中流域を本拠とし,前7世紀以来北方に進出,春秋時代中期に五覇の一人荘王(そうおう)(在位前613~前591)を出してより,戦国時代中期の威王(在位前339~前329)まで,斉,晋,秦の諸国と覇を争った。前278年国都郢(えい)(湖北省)を秦に攻略されて以後,中心は北東に移動,前241年安徽(あんき)省寿春に遷都,ついに秦に滅ぼされた。楚は古くから王を称しており,中原の諸侯国とかなり風俗・言語を異にしていた。戦国末の『楚辞』はその地方色を示す文学作品。また寿春,長沙などに戦国時代の楚墓が発掘されている。
②〔五代十国〕927~951 五代十国の一つ。長沙を中心に湖南に拠った政権。馬殷(ばいん)が907年に後梁(こうりょう)から楚王に封じられて建国。茶栽培を奨励し,独自の貨幣制度を行って富を蓄えたが,政権は不安定で,951年南唐に滅ぼされた。
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楚 (そ)
Chǔ
中国,春秋時代の侯国。戦国七雄の一つ。?-前223年。殷代には河南南西部にあり,西周時代には丹陽(湖北秭帰(しき)県)に都を置き,周と対峙し,周昭王の征伐を受けた。のち都を郢(えい)(湖北江陵県)に移す。春秋時代には湖北・河南南部を収め,北の晋と対立,前597年荘王は晋を泌(河南)で破り,一時覇権を握った。戦国時代にも南方の雄として,北の諸国と対立したが,秦の圧迫を避け,都を陳(河南淮陽(わいよう)県),鉅陽(きよよう)(安徽阜陽県),寿春(安徽寿県)と東に移し,前249年には魯を滅ぼした。しかし秦に抗することができず,前223年に滅ぼされた。《楚辞》の作者として知られる屈原は楚王の一族で,楚文化を代表する。
→春秋戦国時代
執筆者:伊藤 道治
楚 (そ)
Chǔ
中国,五代十国の一つ。907-951年。木工出身の馬殷(ばいん)が湖南に建てた国。後梁から楚王に封ぜられ,その後も中原五代王朝に服属の態度をとって皇帝号を称さなかった。それは東に呉(南唐),南に南漢といった十国中の強国と境を接していたことによる。鉛鉄銭の鋳造や茶栽培の奨励など富国策にみるべきものがあるが,馬殷の20人を超える諸子間の権力争いが激しく,まもなく4勢力に分裂し,南唐の支配,馬氏配下の部将周行逢の自立を経て,宋に併合された。
執筆者:愛宕 元
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楚(春秋戦国時代)
そ
中国、長江(ちょうこう/チャンチヤン)中流域に本拠をもち(都は郢(えい))、春秋戦国時代を通じて、華北の諸国と対立した国。春秋時代には湖北省を勢力圏として河南・安徽(あんき)両省に勢力を伸ばし、戦国時代にかけて湖南を勢力圏に加えていった。春秋中期以後、県の設置を通して地方を掌握し、陳(ちん)、鄭(てい)、宋(そう)など中原(ちゅうげん)諸国や山東の斉(せい)、山西の晋(しん)と対峙(たいじ)した。荘王や霊王(在位前540~前529)が名高い。春秋後期には、江蘇(こうそ)の呉(ご)やこれを滅ぼした越(えつ)と安徽方面で対立する。頃襄王(けいじょうおう)(在位前296~261)のとき、諸国が宋を滅ぼしにかかったのに参戦し、また越の本拠を何度もの攻撃でやっと攻略する。しかし、こうして東方計略に足をとられているすきに、前279~278年の攻撃で秦(しん)に湖北、湖南を奪われ、以後東に都を移した。前223年、秦に滅ぼされた。
[平勢隆郎]
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楚[周代]
そ[しゅうだい]
Chu; Ch`u
中国,周代の諸侯国で戦国の七雄の一つ (?~前 223) 。び姓。荊ともいう。湖北省を中心に活躍した国で,始祖は帝せんぎょくの子孫季連。熊繹 (ゆうえき) のとき周の武王から楚蛮の地に封じられたというが伝説にすぎず,中原部族とは異種であるという。春秋時代初期文王のときに都を郢 (えい。湖北省江陵) に定め,中原諸侯と対立した。荘王 17 (前 597) 年荘王がひつ (河南省鄭) の戦いで晋を破り,中原の覇者になったが,晋との抗争はあとも続いた。春秋後期に呉に圧迫を受けたが,戦国時代に入り勢力を回復し,悼 (とう) 王は政治の改革をはかり,威王6 (前 334) 年威王が越に勝ち発展した。やがて秦が強大となり,懐王は合従策に失敗し懐王 30 (前 299) 年秦に捕えられたまま客死した。考烈王は春申君を用い国力増強に努めたが効少く,秦の圧迫で始皇帝6 (前 241) 年都を寿春 (安徽省) に移し,同 24年王負芻 (ふすう) のとき秦に滅ぼされた。
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楚
そ
①春秋戦国時代の国 ?〜前223
②五代十国の1つ 907〜951
③北宋滅亡後の1127年,金が宋の旧領に建てた王朝
現在の湖北省江陵 (こうりよう) 付近におこった。前8世紀に王号を称し,河南に領土を広げ,前7世紀末には荘王(在位前613〜前591)が春秋の五覇 (ごは) のひとりとなった。前506年,呉のために壊滅的打撃を受けたが,前4世紀初め悼 (とう) 王のとき強盛となり,中原の覇者となった。のち秦の圧迫を受け,前223年滅亡。
始祖馬殷 (ばいん) が長沙 (ちようさ) を本拠として建国。湖南全体と広西の北部を領有,富強を誇った。希範の死後,兄弟間の相続争いが続いて国力が衰え,南唐に滅ぼされた。
1か月余で滅亡。
出典 旺文社世界史事典 三訂版旺文社世界史事典 三訂版について 情報
世界大百科事典(旧版)内の楚の言及
【春秋戦国時代】より
…前半の大半の期間のことが魯国の年代記《春秋》に,後半のことが《戦国策》とよぶ書物に書かれているからである。前453年で二分するのは,春秋の大国晋の家臣であった韓・魏・趙の3代が主家を三分独立し,晋は事実上滅亡し,以後戦国の七雄といわれる韓・魏・趙・楚・斉・燕・秦の対立抗争の時代となるからである。
[歴史]
《史記》によれば,春秋初めには140余の小国が分立していたが,勢力のあったのは,魯(山東省曲阜),斉(山東省臨淄(りんし)),曹(山東省定陶),衛(河南省淇県,のち滑県),鄭(河南省新鄭),宋(河南省商丘),陳(河南省淮陽(わいよう)),蔡(河南省上蔡,のち新蔡,さらに安徽省鳳台),晋(山西省曲沃),秦(陝西省鳳翔,のち咸陽),楚(湖北省江陵,のち河南省淮陽,安徽省寿県),燕(北京市)の十二諸侯であり,洛陽には周王室があった。…
※「楚」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」