和時計(読み)ワドケイ

デジタル大辞泉 「和時計」の意味・読み・例文・類語

わ‐どけい【和時計】

江戸時代、西洋伝来の機械時計を模倣して日本で製作された時計。夜明け日暮れを基準として一昼夜を分割する不定時法を指示するように作られた。やぐら時計尺時計枕時計などがある。

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精選版 日本国語大辞典 「和時計」の意味・読み・例文・類語

わ‐どけい【和時計】

  1. 〘 名詞 〙 江戸時代に、西洋の時計を模して製作された日本独自の時計。外観、機構も著しく異なり、特に時刻の指示が不定時法による日本の時刻制度に改められている。櫓時計、枕時計、尺時計などの種類がある。

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改訂新版 世界大百科事典 「和時計」の意味・わかりやすい解説

和時計 (わどけい)

徳川幕府の鎖国時代につくられた日本独特の時計。1549年フランシスコ・ザビエルがキリスト教布教のために日本に上陸して以来,西洋の珍しい文物が宣教師から大名に献上されたが,その中に少数の時計があった。これらの時計は現在の時刻法と同じ定時法のものであったが,日本はまだ不定時法の時代で,1873年(明治6)の改正までは西洋の時計はそのままでは日本では実用にならなかった。そこで基本的な機構を模倣しながら不定時法の時刻を示すようにくふうを加え,日本以外に類例のない二挺天秤(にちようてんびん),割駒式文字盤のような独創的な機構をもち,櫓(やぐら)時計,台時計,尺時計,枕時計,印籠時計などの,工芸的に見ても独創的できわめて優美な時計がつくり上げられたのである。もちろんこれは一挙に完成されたものではなく,初期の単純素朴な形の鉄製機械から始まって,約250年の間に発達したものである。しかし欧米の時計が工業生産され一般市民の間に普及したのとは異なり,〈大名時計〉とも呼ばれたことからもわかるように,ほとんど大名だけの所有にとどまり,御時計師と呼ばれるお抱えの職人たちの手作りによる個性的工芸品といったほうが妥当かもしれない。したがって絶対数が少ないうえ,73年の時刻法改正のときに廃品化したり,海外に流出した物が多くあり,現存するものは非常に貴重な日本の文化財である。浮世絵などと同様に,これらの時計の価値を最初に認め収集につとめたのは残念ながら外国人であった。〈和時計〉の呼名は柳宗悦らの民芸運動から生まれたものといわれ,江戸時代には〈自鳴鐘〉が時打ち時計に用いられた。

 17~18世紀のヨーロッパでは,時計の精度を決定する最重要な部分である脱進機調速機の発明改良が盛んに行われ,時計の正確さが著しく向上した。しかし鎖国によって孤立化していた日本は,これらの技術を吸収することができず,また時計師自身もほとんど精度向上のための機構改良に関心をもたなかったように見える。ただ一つの例外は〈垂揺球儀〉という天文観測用時計の脱進機で,同軸上に2個のがんぎ車をもつ脱進機構は,和時計以外には発見されていないので,日本人の考案であろうとの説が有力である。

初期につくられたものは櫓時計であったと思われる。一般に台形状の台に乗せられていたことからこの名があり,紐につったおもりを動力としている。時を刻む機構は天秤とバージ脱進機で,天秤は時計のケースの上方で回転往復運動を行っているのが見える。天秤には1対の小さなおもりが下がっていて,このおもりの位置を変えると時計の周期を変えることができる。不定時法では,昼と夜とで1時間の長さが変わり,その差は季節によって変化する。初期の和時計では1日に2回,昼,夜の切替え時に人手によって天秤のおもりを掛け替えていたが,この不便をなくすために,二挺天秤や割駒式文字盤などさまざまなくふうが施されるようになった。二挺天秤は昼用と夜用の2個の天秤が装置されていて,明六つと暮六つに天秤が自動的に交替するもので,2個の天秤の周期の変更は年24回の節季に人手によるおもりの掛替えで行われた。一方,割駒式文字盤は丸い文字盤上の時刻の分割のしかたを変えられるようにして不定時法に適合させたものである。1昼夜1回転する文字盤を用い,その時刻を示す駒の位置を簡単に移動できるようにしてあり,節季ごとに決められた位置に駒を移動させることによって昼,夜の時間の長さを変更するのであるから,天秤は1個でよく,節季ごとのおもりの掛替えも不要である。

 尺時計は和時計の中で他国製にない形と時刻表示方式を特徴としている。全体がたてに細長い長方形で,上部に機械部分,下部に板状の文字板があり,針が上から下へと動いて時刻を示す。この針は箱の細長い隙間を通して内部のおもりに結合されている。つまりおもりの下降を利用した表示の方法である。この時計を不定時法に適合させるための文字板としては,割駒式文字盤と同様に時刻の分割のしかたを変更する割駒式文字板,節季ごとに文字板をとりかえる節板式文字板(1年分12枚で,各枚をさかさにすることにより,昼,夜の長さの比が逆になる節季に2回使える),1枚の文字板上に12節季の分割目盛が併記されていて,半年ごとに板を倒置して使う波板式文字板(1枚の文字板上に24節季分を全部表記したものもある)の3種類がある。

 枕時計は持ち運びのできる置時計であり,動力にはぜんまいが使われている。非常に精巧で工芸的な細工を凝らしたものが多く,大名時計の名にふさわしい時計である。印籠時計は印籠に時計をはめ込んだもので,紐を用いて帯につけ持ち歩いたものである。印籠時計の機械には日本製のもののほか,ヨーロッパ製の懐中時計から転用されたものもある。枕時計や印籠時計がつくられたころには,天秤の代りに輪状のてんぷが用いられるようになり,また小型の置時計である枕時計には振り子をもつものもある。和時計の末期には万年自鳴鐘と呼ぶ和洋両時刻,七曜表,二十四節気,月の満ち欠け,干支,日月運行などを表し,工芸の粋を尽くした精巧な時計もつくられた。

 和時計の時刻は1日を昼と夜に二分し,昼と夜をそれぞれ6刻に分割していた。1時間の長さが季節により異なるので,現在の時間と直接対比することはできないが,1刻はほぼ今日の2時間に当たる。刻の表記は十二支と和数字との2種がある。子の正刻は夜半で,午の正刻は今日の正午である。和数字のほうは夜半の九つから始まり八つ,七つ,六つ(明け),五つ,四つまでかぞえ,その後はまた九つから始まって暮六つを経て四つで終わる非常に変則的なかぞえ方といえるが,これは刻の鐘の打数に関係がある。自鳴鐘もこの数と同じ打数で時刻を報じた。報時のために時計の最上部に鐘が取り付けられており,その形や音色はやはり和時計独自のもので,古い時計の鐘は釣鐘のような深い形をしている。鐘楼の形に似た櫓時計,掛時計,台時計によくこの形の鐘が見られる。
時計
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「和時計」の意味・わかりやすい解説

和時計
わどけい

江戸時代に日本でつくられた機械時計。西洋から伝来した機械時計を基に、鎖国の状況下で時計師たちが、当時の日本の時刻制度、生活様式にあうように考案、改造した日本独特の時計である。日本への機械時計の伝来は1551年(天文20)、宣教師フランシスコ・ザビエルが山口の領主大内義隆(よしたか)に布教の許可を願い出た際、時計を献上したことに始まる。その後キリスト教の広がりにつれ時計の持ち込みも多くなった。一方、宣教師たちによってその製造法が伝えられ、慶長(けいちょう)年間(1596~1615)には九州からやがて近畿地方においても伝習されるようになった。日本の時計技術者の祖といわれる津田助左衛門は徳川家康所有の自鳴鐘(じめいしょう)(時計)を修理し、それを見本に時計一台をつくって献上し、のち尾張(おわり)徳川家に時計師として仕えた。島原の乱後、鎖国の完成(1639)によって時計もまたヨーロッパとの交流を断たれ、機械時計の発明によって定時法(一昼夜を等分する方法)の採用に向かった西洋諸国とは異なり、日の出、日の入りを基準とし、一時(いっとき)の長さが昼夜、そして毎日変化する日本の時刻制度にあうような時計の実現に力を注ぐことになった。和時計の製作は江戸時代初期にはまれであったが、中期になると大名のお抱え時計師の数も増え、しだいに盛んとなった。1796年(寛政8)には時計の製造について『機巧図彙(からくりずい)』という著述が細川頼直(よりなお)によって書かれている。現在使用している時計の語も江戸時代からであるが、古くは斗景、斗鶏、土圭、自鳴鐘、時辰儀(じしんぎ)などと書かれた。1873年(明治6)1月の改暦と定時法の採用によって和時計は実用性を失い、その多くは廃棄され、一部は海外に流出した。また工芸品的な和時計産業は外国との競争力をもたず消滅した。

 和時計は形状や機械の構造によって次のように分類される。

(1)櫓(やぐら)時計 機械部は火の見櫓状の台の上に置かれ、台の中に下げられた重錘(じゅうすい)を動力として動く。棒てんぷは初め一つ(一挺(いっちょう))であったが、昼夜の一時(いっとき)の長さを調整するためてんぷの腕にかけられている分銅の位置を移し変える手間を省くため、昼間用と夜間用のてんぷ二つを備え、暮六つ、明(あけ)六つに自動的に切り替わる機構(二挺てんぷ)が考案された。時刻は十二支および刻の呼び数で示され、その表示方法には針が動くもの、針が上向きに固定され文字板が回るものがあり、また一刻の長短を時刻を記した小片(割駒(わりこま))を動かして間を広げたり狭めたりして調整する割駒式文字板も用いられた。櫓時計と同種のものに四脚の台にのせた台時計、形式としてはいちばん古い掛け時計がある。

(2)尺時計 細長い箱の上部に機械部が納まり重錘が下がって機械を動かす。重錘には指針がつき、箱の前面に取り付けられた時刻目盛りの上を移動して時刻を示す。割駒式、季節ごとに目盛りを変えた板を取り替える節板式、および1年間の各季節の時刻目盛りを刻んだ波板式のいずれかの文字板が用いられている。外国にはみられない独特の形式の時計で柱に掛けて、用いられる。

(3)枕(まくら)時計 ぜんまいを動力とした置き時計で、美しい彫刻や金被覆で飾られ、紫檀(したん)、黒檀などのケースに入れられ、単なる時計にとどまらず、装飾としても利用される豪華で精巧なものが多い。

 和時計には以上のほかに重力時計、卓上時計、卦算(けさん)(文鎮)時計、懐中時計、印籠(いんろう)時計などがある。江戸末期の1851年(嘉永4)田中久重(ひさしげ)の製作した万年時計は一種の天文時計で和時計最大の傑作として名高く、現在東京・上野の国立科学博物館に保存されている。

[元持邦之]


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百科事典マイペディア 「和時計」の意味・わかりやすい解説

和時計【わどけい】

西洋から伝来した時計をもとに,江戸時代,不定時法の時刻を表示できるようにくふうを加えて製作された機械時計。宣教師によってもたらされた西洋の機械時計の基本的な機構を踏襲しながら,昼用と夜用の二つの天秤(てんびん)をもたせたり,文字盤上の時刻の分割のしかたを変更できるようにするなど,日本の不定時法時刻制度に合わせた独特の時計が作られた。調速機構には棒てんぷと冠形脱進機を用い,精度はあまりよくないが,工芸的価値もあって,大名などに珍重された。技術的な発展がなかったため,幕末に作られた万年時計を最後の傑作として,明治以後は廃滅した。和時計には,台上に置いておもりを動力とする櫓(やぐら)時計,ぜんまい動力の置時計である枕時計,おもりを動力とし,柱に掛けて用い,錘の降下につれてこれに付けた指針が板状の文字板を指示する尺時計,携帯用の印籠(いんろう)時計などの種類があり,時打機構を備えていたものもある。
→関連項目時計

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デジタル大辞泉プラス 「和時計」の解説

和時計

民芸研究家、塚田泰三郎によるエッセイ。1960年刊行。第9回日本エッセイスト・クラブ賞受賞。

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世界大百科事典(旧版)内の和時計の言及

【からくり】より

…その後傀儡(くぐつ)師は素朴な仕掛け人形を用いていたが,やがて近世の人形芝居や見世物そして祭礼の〈屋台からくり〉の世界が開花していく。日本の機巧術が大きく発展するのは江戸時代のことで,日本の細工師たちはヨーロッパから渡来した機械時計にぜんまい,歯車,カム,クランクそして制御装置を目にし,これをもとに和時計をつくり,この時計技術を下敷きとして,からくりの夢を実現させた。竹田近江が考案した〈竹田からくり〉に代表される仕掛けものの人形芝居(竹田座)が盛況をみた江戸時代中期には,いっぽうで名古屋を中心に祭礼の〈屋台からくり〉が技術の粋をきそい,その遺品は今日では高山祭の〈竜神台〉や〈布袋(ほてい)台〉などの〈離れからくり〉にみることができる。…

【時刻】より

…時刻法は一般庶民の生活に便利な不定時法であった。室町時代末期に外国との交渉が始まるとともに,キリスト教の宣教師が西洋の機械時計を日本に持ち込んだが,生来器用な日本人はその機構をまねて不定時法の時刻を示す和時計を作製した。和時計が普及するようになると時法も精密なものが要求されるようになり,1辰刻をさらに10等分した分が使用されるようになった。…

※「和時計」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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