デジタル大辞泉 「時計」の意味・読み・例文・類語
と‐けい【時‐計/土×圭】
[補説]「時計」は当て字。「土圭」は、昔、中国で方角・日影を測る磁針を称した語。
曲名別項。→時計
[類語]腕時計・置き時計・柱時計・目覚まし時計・目覚まし・砂時計・金時計・鳩時計・花時計・水時計・日時計・ストップウオッチ・タイムスイッチ・タイマー・セルフタイマー
翻訳|watch
( 1 )表記は本来「土圭」であり、日時計のことであった。一四世紀にヨーロッパで機械時計が製作され、キリスト教宣教師によって中国、日本にもたらされた。日本では天文二〇年(一五五一)にフランシスコ=ザビエルが大内義隆に献上したのが最初だと言われている。
( 2 )中国では、時打ち時計である機械時計には「土圭」ではなく、「自鳴鐘」が使用された。日本でも江戸時代には和語の「ときはかり」〔日葡辞書〕の漢字表記と思われる「時計」が広く用いられていた。しかし幕末・明治初期の漢語重視の時代には「時計」が字音的表記でないところから、「時器」「時辰儀」「時辰表」が一時的に使用された。ただしこれらの表記が使用される場合でも、振り仮名はあくまでも「とけい」であった。
時刻の指示、あるいは時間を測定する装置を時計という。広義には太陽や恒星の位置から時刻を決定する日時計、星時計、アストロラーベ(おもに航海用に使われた天体観測儀。現代の六分儀にあたるもの)、子午儀(子午線通過時刻を観測する時計)、写真天頂筒なども含むが、一般には水や砂などの規則的な流れ、振り子、てんぷ(調速装置)、音叉(おんさ)、水晶片・原子の振動などのように、等しい時間間隔で繰り返される周期現象を利用して時間を計る装置をいう。
[元持邦之・久保田浩司]
古代人は昼夜の繰り返しによって日を数え、暦をつくり、また影の変化によって時の経過を計った。最初の時計は1本の棒を地上に立てたグノモンgnomon(ギリシア語)である。古代エジプトではオベリスクがグノモンとして使われていた。指針はやがて地軸に平行に傾けられ、1年の間、影の長さは変化しても方向は変わらないように改良された。これが日時計sundialである。日時計は初めバビロニア、エジプトでつくられ、しだいに東西に伝わったといわれる。しかし日時計は夜間、曇天時には使用できず、時間の細分には適していなかったため、この欠点のない水の滴りを利用した水時計のクレプシドラclepsydra(ギリシア語で水泥棒の意)が考案された。古代エジプトではすでに1年を365日とする暦を用いており、紀元前1550年ごろにはこの種の時計によって昼夜を各12等分していたことが知られている。その後、水を砂に置き換えた砂時計、火時計(ろうそく、ランプ、火縄、香(こう)時計)などが考案され、それぞれの特徴によって近世までも用いられた。しかしこれらの時計は精度も劣り、つねに日時計と見比べられながらある時間を等分する、あくまでも補助的な装置であった。地上に立てた棒の影が最短となり、翌日ふたたび同じ状態になるまでの時間が真太陽日(しんたいようじつ)であるが、この真太陽日の1日の長さは1年を通じてかなり変化する。この不便をなくすため、紀元後18世紀中ごろから19世紀末にかけて、1年を通じての平均をとって平均太陽日を定め、これを24等分したものを時hour、時を60等分して分minute(時の細分の意)、分を60等分して秒second(第二の細分の意)とする制度がヨーロッパの先進国で始まった。
1927年水晶時計が出現し、しだいに精度が向上すると、それまで最高の精度をもつ時計であった地球自転速度(精度プラスマイナス1億分の5)の不規則性が発見され、これが正しい時計の基準にならないことが明らかとなった。このため時間の単位である「秒」を再定義することになった。1956年国際度量衡会議総会は、「1秒は、1900年1月0日12時(暦表時)の時点で測った1太陽年の3155万6925.9747分の1」とした(地球の公転周期に基づく定義。1960年正式採用)。さらに同会議総会は、精度をより高くするため、1967年に「1秒は、セシウム133原子の基底状態の二つの超微細準位間の遷移に対応する放射の91億9263万1770周期の継続時間である」と再定義した。すなわち、セシウム133が91億9263万1770回振動する時間を1秒とした(セシウム原子の振動数に基づく定義)。このように定義された秒により刻まれる時刻を原子時という。原子時は確定世界時(各天文台の世界時の平均)との時刻差がプラスマイナス0.9秒を超えないように管理されている。この調整は1年の定められた時刻に1秒の閏(うるう)秒を挿入または差し引くことにより行われる。1977年以降は地球のジオイド面上のセシウム133を基準としている。
[元持邦之・久保田浩司]
機械時計の発明は1300年前後であろうといわれる。14世紀になると北部イタリアを中心にヨーロッパの主要都市は、時打ち装置をもつ公共的な塔時計を競って設置した。パリの最高裁判所にある時計は、1370年ドイツ人ド・ビックHenri de Vicがフランスのシャルル5世のためにつくった現存最古の時計として名高い。またイタリアのデ・ドンディGiovanni de' Dondi(1318―1389)の作製した天文時計、高さ4.6フィート(約1.4メートル)の置き時計は、現存してはいないが1364年に書かれた詳細な記録が残っており、1960年その正確な複製品がつくられアメリカのスミソニアン博物館に所蔵されている。当時の時計構造は、重錘(じゅうすい)の力で歯車を回転させ、冠形脱進機に慣性の大きな棒てんぷをかみ合わせて軸の回転を抑制する方式であった。棒てんぷ自身は現在の振り子やてんぷのように等時性をもった振動を行わないため、時計の狂いは1日に30分にも及んだ。このため当時の時計は時針1本だけで、目で眺めるものではなく、鐘で時刻を知らせるものであった。14世紀につくられた大部分の時計には、いわゆる文字板がない。クロックの語源は鐘であり、一般市民は鐘の音にあわせて生活を営むようになり、これまでの不定時法にかわって、1日を24等分して時を刻む定時法が浸透した。これら公共時計がそのまま室内用の大きさに小型化されたのは14世紀末であるが、数はきわめて少なかった。一般の富裕な家庭にみられるようになったのは16世紀になってからのことである。
ぜんまいの発明によって卓上時計がつくられたのは15世紀前半で、やはりイタリアとの説が強い。しかし時計製造の中心は15世紀末には南ドイツに、少し遅れてフランスのブロアへ移っていった。ニュルンベルクの錠前師ヘンラインPeter Henlein(1479/1480―1542)が1510年ごろ、懐中時計の前身である携帯時計をつくったことはよく知られている。ぜんまい時計の最大の問題点は、巻き締め状態によってぜんまい力が大きく変動し時計を狂わすことであった。このため、発明者は不明であるがレオナルド・ダ・ビンチの手稿にみられる均力車fusée(フランス語)やスタックフリードstack freed装置が考えられ、16~17世紀の携帯時計にはそのいずれかが用いられている。初期の携帯時計は分厚く、首または胸に下げられ、時打ち装置を備えたものが多く、クロック・ウォッチとよばれた。1600年前後には十字形、頭蓋(ずがい)骨、動物、果物、星、花といった珍奇な形の時計が多くつくられ、その後、今日のような丸形に落ち着いた。ケースには貴金属やエナメルが用いられ、美しいエナメル画はウォッチを美術工芸品、宝飾品とした。
1583年ガリレイによって振り子の等時性が発見されると、オランダの科学者ホイヘンスはこれを時計に利用して1657年に最初の振り子時計として完成させ、さらに1675年てんぷと渦巻状のひげぜんまいを組み合わせた調速機を発明した。この等時性をもつ調速機の発明は時計の精度を一変させ、高精度化への道を開いた。
日本への機械時計の伝来は、1551年(天文20)宣教師フランシスコ・ザビエルが、周防(すおう)の領主大内義隆(よしたか)に布教の許可を願い出た際に献上した時計が始まりといわれる。しかしこの時計は焼失し、現在もっとも古いものは静岡県の久能山(くのうざん)東照宮博物館にある徳川家康愛用の置き時計(重要文化財)で、スペイン国王フェリペ2世の御用時計師ハンス・デ・エバロHans de Evaloが1581年マドリードでつくったものである。キリスト教の普及とともに教学機関が設けられて時計製作技術の習得が行われ、1639年(寛永16)の徳川幕府鎖国政策強化にもかかわらず国内の時計製作は盛んになり、「和時計」とよばれる特殊な機械時計が発達した。
17世紀前半のオランダの繁栄後、世界経済の中心がイギリスに移行するにつれ、時計に関する発明もイギリスで盛んになった。16世紀以来、スペイン、オランダ、イギリス、フランスなどの海運国が「経度の発見」を国家的課題とし、最高精度の可搬時計マリンクロノメーターの製作を奨励したこともあって、ロンドンで働いていたスイス人ファティオNicolas Fatio(1664―1753)のルビー材穴あけ方法の発明(1704)に基づく宝石軸受の採用、17世紀のロバート・フック、クレマンWilliam Clément(1638?―1704)に続いてトンピオンThomas Tompion(1639―1713)、グラハムGeorge Graham(1673―1751)、マッジThomas Mudge(1715―1794)などの脱進機に関する発明、グラハムの水銀補正振り子など、18世紀には主要な発明が相次ぎ、時計の構造は大いに改良された。また機械の小型、薄型化が進み、多くの機能が付け加えられた。
19世紀になるとしだいに工場が設立され、個人による製作は姿を消した。これまで世界第一の時計産業国であったイギリスは、製造機械化への無関心が災いして1840年ごろから衰退し、かわってスイスの台頭が始まった。20世紀初期に出現した腕時計は第一次世界大戦後大いに流行し、1924年にはイギリスのハーウッドJohn Harwood(1893―1964)が自動巻き腕時計の特許を得て製造を始めた。時計の精度向上について偉大な貢献をしたのはスイス生まれの金属学者ギヨームである。ギヨームは、ニッケル鉄合金で、温度変化に対して伸縮の少ないアンバーと、弾性変化の少ないエリンバーの発明によって1920年ノーベル物理学賞を受けた。アンバーは振り子の棹(さお)などに、エリンバーは、てんぷのひげぜんまいに用いられ、時計の実用精度を著しく高めた。18世紀が構造・機能についての改良の時代、19世紀が製造法の改革・進歩の時代、そして20世紀は時計産業にとって機械時計の精度の完成期、さらに革命的な電気・電子時計への転換の時代となった。
[元持邦之・久保田浩司]
電気を時計に応用したのは1830年イタリア人ツァンボニZamboniといわれるが、電気時計発展への道を開いたのはイギリスのベインAlexander Bain(1810―1877)とされている。ベインは1840年電気信号によって子時計を動かすことを提唱し、翌年機械時計の振り子を利用し、接点によって一振動ごとにインパルスを発生させ、子時計を動かすことに成功した。続いてヒップMatthias Hipp(1813―1893)、ルモワンA. Lemoineなどが電磁式振り子駆動の単独時計を、1856年にはスイス生まれのブレゲーLouis Breguet(1804―1883)が電気巻き時計を、また1918年ごろアメリカのワーレンHenry Ellis Warrenが交流同期モーターを使用した時計を、1927年にはマリソンWarren A. Marrison(1896―1980)が水晶時計を、第二次世界大戦後の1949年にはライオンズHarold Lyons(1913―1998)がアンモニア分子の振動を利用した原子時計をつくった。
1948年にベル研究所のブラッテン、ショックレー、バーディーンの3人によって開発されたトランジスタは、微弱な電流で大きく増幅させる性能をもち、電気接点としても有用な性能をもっているため、1954年ごろから電子機器を発達させ、時計にも用いられ始めた。大物時計と並行して電池腕時計の研究も続けられ、1952年アメリカのエルジン社とフランスのリップ社協同のてんぷ式ウォッチのプロトタイプが発表され、これに続いて、てんぷ式、音叉式の電池腕時計がアメリカ、フランス、スイス、日本で製造されるようになった。1969年(昭和44)には服部(はっとり)時計店(のちセイコー)が世界最初のアナログ表示水晶腕時計を、1972年にはアメリカの数社がデジタル式を発売した。また1993年(平成5)には送信所の電波塔から発信される標準電波を受信して時刻を示す電波腕時計が日本国内で発売された(2003年以降、小型化されたアンテナ内蔵の電波腕時計を発売)。エレクトロニクスの急速な進歩によって、高密度の集積回路(IC)を組み込み、精度、機能に優れ、小さく薄く、かつ低コストになった水晶時計は、短期間に機械式に置き換わった。とくにデジタル腕時計の多機能化、低価格化の進展は、ウォッチの性格を携帯情報機器に変え、その需要構造を大きく変えた。
[元持邦之・久保田浩司]
時計の種類・分類方法は多種多様で、時刻指示機と時間測定器、また源振部の制御方式による電気、電子、機械時計の区分なども広く用いられる。しかしウォッチとクロックの区分がもっとも一般的であろう。前者は通常、身に着けて使用される時計、後者は一般に定位置で使用される時計をいう。実際にはケースのつかないムーブメントmovement(時計の機械部分)の状態で取引される場合も多いので、国によってはムーブメントの直径や厚み、あるいは容積によってウォッチのムーブメントを区分している。
[元持邦之・久保田浩司]
懐中時計、腕時計、ペンダント時計、指輪時計、ストップウォッチなどがあり、ペンやライターなどとの複合製品も多くみられる。一方、携帯電話、歩度計(万歩計)などのような身の回り品にデジタル時刻表示がみられ、時計がわりに使用されるようにもなった。
このほかの分類法としては、大きさ(ムーブメントの直径を1型(2.255ミリメートル)の倍数でよぶ。たとえば直径22.5ミリメートルなら10型)、石数、外装材料(金側(がわ)、ステンレス側など)、表示法(アナログ、デジタル)、脱進機(レバーウォッチ、ピンレバーウォッチ)、調速機(振り子、てんぷ、音叉、水晶など)などによって分ける方法がある。機能や品質表示的な呼称による分け方もあり、クロノグラフ、クロノメーター、自動巻き、カレンダー付き、目覚し、視覚障害者用、防水、耐衝撃、耐磁、夜光時計などがそれである。以下、そのうちでおもなものについて述べる。
(1)レバーウォッチ レバー脱進機すなわちアンクルのつめ石が貴石(ルビー)でできた脱進機をもつウォッチ。
(2)ピンレバーウォッチ アンクルのつめ石を鉄ピンにかえたもの。ロスコフともよばれる。
(3)耐磁時計 時計は鉄部品を数多く使用しているので、磁力線のあるところに近づけると歩度に狂いを生じる。磁化によってもっとも大きな影響を受ける部品はひげぜんまいであるが、現在の製品はほとんどひげ材料に非磁性の特殊合金を使用している。特殊なものとしては、ムーブメントを透磁性の高い材料で囲み、外部の磁力線から防護したものがある。国際的な基準(ISO規格)によって、時計を4800アンペア毎メートルの磁界中に所定の姿勢でさらし、取り出したのち、試験前後の歩度の差が機械式小型時計で1日当り45秒、中型で30秒、水晶時計で1.5秒以内のものだけに耐磁antimagneticの表示が許される。
(4)耐衝撃腕時計 国際的な基準によって、1メートルの高さから硬質材の床上に落としても、止まったり大きな狂いや損傷を生じたりしない腕時計に、耐衝撃shock-resistantの呼称が許される。
(5)防水時計 側の内部に水が浸入しないような構造の時計をいい、国際的な基準によって、少なくとも3バール(約3気圧)の圧力のもとで5分間程度水の浸入に耐えられなければ防水water-resistantの表示は許されない。また潜水時計は、少なくとも100メートルの水深に耐えねばならず、それ以上の製品についても国際的な規格がある。
(6)夜光時計 暗所で時刻が読めるように文字板や針に発光塗料を塗った時計。塗料に用いられる放射性同位元素の放射能が人体に影響を及ぼすため、時計に使用してよい核種(トリチウム、プロメチウム、ラジウムの3種に限る)とその全放射能の最大許容量は国際規格によって定められている。
[元持邦之・久保田浩司]
置き時計、掛け時計、設備時計(塔時計、公衆時計)、プログラム時計、マリンクロノメーターなどがある。置き時計にはロングケースクロック(通称グランドファーザークロック)のように床に直接据えられる大型の重錘式振り子時計から、旅行用目覚し時計のようにポケットに収まる小型のものまである。20世紀の中ごろまでは最高の精度をもつ時計は振り子式の天文時計であった。これらのなかではとくにリフラRiflerとショルトShorttの時計(誤差1日当り0.01秒)が有名である。しかし現在では天文時計は原子時計に、マリンクロノメーターは水晶時計に置き換わっている。機械式から電子式への移行は一般家庭用時計でも急速に進み、電子化への先導国である日本のクロック生産中の機械式のシェアはほんのわずかとなっている。一般に電気・電子時計は単独時計、および外部からの信号によって振動周期や指針が制御されるものに大別される。前者には振り子、てんぷが直接電磁的に駆動される電磁時計、機械時計のぜんまいなどを電気で巻き上げる電気巻き時計などが、後者には親時計からの信号を得て動く子時計、交流同期時計などがある。
[元持邦之・久保田浩司]
時計の機構は次の4装置から構成される。
(1)時間の間隔をつくりだす装置 源振部、調速機、共振器などとよばれる。時計の精度はこの部分によってほぼ決まる。振り子、てんぷ、音叉、水晶振動子、原子などがこれである。
(2)源振部が決める時間間隔を単位時間に変換する装置 分、秒、または秒を分割した間隔に変換する。機械時計では脱進機を構成するアンクルと、がんぎ車で歯車の回転速度を規制する。電子時計ではインパルスカウンターや周波数逓降器(ていこうき)などがこれである。
(3)表示装置と外装 文字板と針によるアナログ表示と、ローマ字・数字表示のデジタル表示がある。
(4)動力装置 重錘、ぜんまい、電池、交流電源などがある。
[元持邦之・久保田浩司]
機械時計が14世紀北部イタリアに出現したのち、時計の製造地域はイタリアからドイツ南部、フランス、オランダ、イギリス、スイスと移り変わったが、きわめて高度な技術と熟練作業者を必要とするため、その後アメリカ、日本、旧ソ連が加わった程度で、生産国はごく少数に限られていた。1930年代にはスイス(ウォッチ)、ドイツ(クロック)、アメリカ(ウォッチとクロック)の3国で世界の時計の90%以上を生産、また水晶時計化の始まる直前の1970年にはスイス、日本、旧ソ連、アメリカ、フランス、旧西ドイツの6国で90%を生産していた。しかしエレクトロニクスの急速な発展によって時計も電子化という一大変革の時代を迎えることになった。これは単なる技術革新にとどまらず、産業構造を変え、生産国の地図を大幅に塗り替えた。主要な時計メーカーは国際的コスト競争、輸出トラブル回避のため海外生産を行う体制をとったこともあって錯綜(さくそう)してはいるが、時計生産の中心地はすでに欧米から日本をはじめとするアジア地域(ウォッチは日本と、香港(ホンコン)を含む中国、クロックはこれに台湾などが加わった一部アジア諸国地域)に移っている。2010年(平成22)の時計の世界生産個数(推定)はウォッチ10億5000万個、クロック4億7500万個である。
[元持邦之・久保田浩司]
大別して二つの型がある。その一つは大工場で部品から完成品までを一貫生産する方式、そして他の一つはそれぞれの部品を買い集め、家内工業的に時計を組み立てる組立て工場方式である。アメリカ、日本、旧ソ連など生産国としての歴史が比較的新しい国は前者に、スイス、ドイツ、フランスなど歴史の古い生産国は後者に属していた。しかし、新製品の開発経費の増大、量産によるコスト低減、マーケティング、さらに近年の製品における設計と製造設備との不可分な関係などから、後者に属するヨーロッパのメーカーは、日本の時計輸出が盛んになってきた1960年代後半以降、国際競争力のある企業規模への脱皮を目標に合併を余儀なくされた。
[元持邦之・久保田浩司]
フランスにおける宗教戦争(カトリック対プロテスタントの抗争)によって、フランスからジュネーブなどに逃れてきた時計師たちが技術を伝え、16世紀後半に時計産業が盛んになった。18世紀に入って時計作りはジュラ山脈沿いに広がり、ジュラ山地農家では、副業として農閑期に時計製造を習得するようになり、部品製造から組立てまでを行う、家内工業として発達した。スイスメーカーは第一次世界大戦後に、腕時計の流行にいち早く対応して、1929年の世界大恐慌ののち、連邦政府の保護のもとに組織化を進めた。時計会議所の傘下に時計製造者連盟(FH)、時計部品製造者組合連合会(UBAH)を設け、1931年には時計産業最大のコンツェルン・スイス時計産業総合株式会社(ASUAG)を設立、時計の主要部品エボーシュ(未完成品ムーブメント、あるいは部品一式)、てんぷ、ひげぜんまい、脱進機等のメーカーをそれぞれグループ化して統制し、過剰生産防止、外国時計産業発展防止活動、価格・賃金の統制、情報収集などを行った。スイスは多くの熟練労働者、精度の高い時計用工作機械による技術的優越とこの統制組織によって、その後約40年間世界ウォッチ市場を独占した。とくに1940~1950年代にはスイスは世界で生産される数量の過半を生産し、この時期、時計の輸出額はスイス全輸出額の20~30%を占めた。しかしその後、日本、アメリカ、旧ソ連等の発展によってシェアを落とし、また伝統的産業構造と技術に頼りすぎて、新技術、たとえば水晶ウォッチなどの開発に出遅れ、それまでスイス製品の約半数を占めていたピンレバー(廉価なロスコフウォッチ。簡素な機構の時計)のシェアを香港製デジタルウォッチに奪われた。1980年代の生産は機械式の全盛期の1970年に比べて半減し苦境に陥ったが、その後組織再編、高価格化に力を入れ、1990年代以降は売上高は立ち直り大幅な挽回に成功した。現在のスイスは、その雇用人口は全盛期の約半数に減少したが、伝統的な主力品種である機械式・工芸的高級品の分野では繁栄している。
[元持邦之・久保田浩司]
1960年代には低価格のウォッチ用ケース、文字板、バンドを生産し、数社がおもにスイスからムーブメントやばら部品セットを輸入し完成品を組み立てているにすぎなかった。1970年代になって国際分業化が始まり、日本、スイスのメーカーが進出し、デジタルウォッチの出現後はアメリカ企業との結び付きを強め、1970年代後半から生産が急増した。また中国への委託加工も始まり、1980年代初めには輸出、輸入(大部分を再輸出)で世界の時計の過半数を集配する巨大な流通センターに成長した。デジタルウォッチは1972年初めてアメリカで発売されて国内にブームを巻き起こしたが、大手半導体メーカーの相次ぐ参入によって企業間競争が激化し、低労賃で労働力の豊富な香港から製品を輸入するメーカーが増えた。反面、アメリカの製造業者はこの香港の安値に対抗できずに倒産か撤退に追い込まれた。
香港時計産業の特徴は、生産国からウォッチやムーブメント、また組立てセットを輸入し、ケース付け、バンド付けなど付加価値をつけて輸出するか、組立てだけを行うかのどちらかで、部品からの一貫生産にこだわらなかった点にある。研究・開発費の不要な組立てメーカーに徹したこと、たまたま外装産業があったこと、自由港としての利点を十分に生かしたことが今日の成長につながった。デジタルウォッチが急増した1980年代には生産個数で世界一となったこともあったが、そのころから中国への委託加工を大幅に伸ばしていた。香港の中国返還後は委託加工にとどまらず中国内地産業との関係を急速に強めている。
[元持邦之]
1873年(明治6)の改暦、すなわち旧暦から欧米に一致する新暦への改訂の後、東京、名古屋などの和時計製造は新暦の国産掛け時計企業として再出発し製造が始まった。さらに19世紀末には懐中時計・置き時計、そして1913年(大正2)には腕時計の製造が始まり、第一次世界大戦の好況によって順調に発展した。しかし第二次世界大戦により、軍用時計および時限信管(発射後、あらかじめセットしておいた時間が経過したら爆発する信管)など以外、民間需要の時計生産は停止され、さらに日本本土への空襲によって、1940年代の時計製造は停滞し壊滅した。1945年(昭和20)の平和回復後、時計の需要は復活し、生産は活発化した。これに対し工作機械・工具類、各種原材料への急速な研究開発は時計産業を大きく支援した。また、永世中立国スイスの中核産業がウォッチであるとのイメージから、日本も平和国家として時計生産に力を入れようという考えは、時計業界のみならず、官庁・大学・研究機関も力を入れる刺激となった。その結果、時計理論・材料・構成部品・工作機械・計測器等の研究開発に少なからずプラスとなった。このようにして品質の優れた中級品の量産が進み、1954年には第二次世界大戦前の時計最高生産量467万個(1937)を超えた。
1964年、東京オリンピックが開催され、この機会に日本の企業は各種の競技時計および電子式計時装置の開発に力を注ぎ、その実力を発揮し、これ以後、国際競技で大いに活躍した。これを契機に日本製時計の知名度は向上し、商品としてアメリカ、東南アジア等世界市場に地位を築いた。たとえば自動巻腕時計では1965年以降、世界生産量の50~70%を占め、毎年次にそのシェアを伸ばした。日本は1970年代に始まった水晶ウォッチへの技術開発でも、デジタル、アナログの両方式に高度な技術開発を進め、市場需要をとらえる成長を遂げた。日本製品の信頼性、商品性は諸外国製を上回る信用を得、販売数・売上金額とも、しだいに機械式以上に成長した。ウォッチは1980年にスイスを抜いて世界一の時計生産国となった。アメリカは、もっとも早く、1970年に機械部品なしに時を刻むデジタルLED(発光ダイオード)電子ウォッチで先行したが、すぐにLCD(液晶)式に移行した。これに対し日本の各メーカーは、まずアナログ水晶ウォッチを中心に、着実に商品化を進め、次いでデジタルウォッチでも当初から液晶表示式・多機能商品で世界市場の獲得に成功した。2010年(平成22)の日本の時計メーカーによるウォッチ完成品の総出荷数は6590万個(水晶アナログ66%、水晶デジタル30%、機械式4%)、完成品とムーブメントの合計出荷数は6億7300万個(世界の64%)。同クロック完成品の総出荷数は1730万個(置時計59%、掛時計24%、計器板ほか17%)、完成品とムーブメントの合計出荷数は2300万個(世界の5%)である(日本時計協会調べ)。
[元持邦之・久保田浩司]
ウォッチおよびクロックの世界需要は平均年4~6%のピッチで着実に伸びてきた。ウォッチは1980年代には生産地の移動、デジタル低価格品の供給過剰で平均年11%といった異常な増加を続けたが、1990年代初めには落ち着きを取り戻した。クロックは1997年(4億4000万個)以降低迷し、2002年には3億2000万個まで落ち込んだが、その後は微増傾向にある。一方、ウォッチの消費面ではアメリカとヨーロッパの割合が高いが、この地域における所有率は飽和状態にあることから、今後の伸長は携帯情報機器としてのさらなる広がり、ファッション性のいっそうの向上、開発途上国における需要の喚起にかかっている。2010年の世界生産数はウォッチ10億5000万個(水晶アナログ80%、水晶デジタル18%、機械2%)、クロック4億7500万個である(日本時計協会推定値)。
[元持邦之・久保田浩司]
『山口隆二著『日本の時計――徳川時代の和時計の一研究』(1950・日本評論社)』▽『J・グロスマン、H・グロスマン著、青木保訳編『理論時計学』(1958・日刊工業新聞社)』▽『上田弘之編『時の科学』(1966・コロナ社)』▽『小林敏夫著『基礎時計読本』改訂増補版(1971・グノモン社)』▽『株式会社河合企画室時計史年表編纂室編『時計史年表』(1973・河合企画室)』▽『G・H・バイリー他著、大西平三訳『図説時計大鑑』(1980・雄山閣出版)』▽『高林兵衛著『時計発達史』(1924・東洋出版社/復刻版・1985・有明書房)』▽『日本経営史研究所・セイコー時計資料館編、内田星美著『時計工業の発達』(1985・服部セイコー)』▽『小島健司著『明治の時計』(1988・校倉書房)』▽『織田一朗著『クオーツが変えた「時」の世界』(1988・日本工業新聞社)』▽『香山知子著『ウオッチ・アド――広告に見るアメリカ時計産業興亡の軌跡 1905―1962』(1990・グリーンアロー出版社)』▽『清水修著『時計』(1991・日本経済新聞社)』▽『G・J・ウィットロウ著、柳瀬睦男・熊倉功二訳『時間――その性質』(1993・法政大学出版局)』▽『A・G・スミス著、渡会和子訳『時間』(1993・ほるぷ出版)』▽『世界の腕時計編集部編『国産時計博物館』(1994・ワールドフォトプレス)』▽『長尾善夫他著『国産腕時計』1~9、11、12巻(1996~2002・トンボ出版)』▽『織田一朗著『時計にはなぜ誤差が出てくるのか』(1998・中央書院)』▽『上野秀恒著『「時」の表情――街の時計で辿る日本の歴史と文化』(1999・クロック文化研究所、NTTメディアスコープ発売)』▽『グッズプレス編集部編『THE SEIKO BOOK 時の革新者――セイコー腕時計の軌跡』(1999・徳間書店)』▽『タスクフォース1編、織田一朗著『時と時計の百科事典――時間と時計に関する疑問を解く』(1999・グリーンアロー出版社)』▽『織田一朗著『時計と人間――そのウォンツと技術』(1999・裳華房)』▽『久下晴夫著『スイス時計交流記――時計業界の不思議と思い出の時計を語る』(1999・グリーンアロー出版社)』▽『戸田如彦著『アンティーク掛時計』(2001・トンボ出版)』▽『関口直甫著『日時計――その原理と作り方』(2001・恒星社厚生閣)』▽『若山三郎著『時計王――セイコー王国を築いた男』(2002・学習研究社)』▽『有澤隆著、嶋田敦之・吉岡宏写真『図説 時計の歴史』(2006・河出書房新社)』▽『流郷貞夫著『精工舎 懐中時計図鑑』(2009・溪水社)』▽『山口隆二著『時計』(岩波新書)』
時は過去から未来へと流れていく。時の流れそのものは目に見えないが,朝になって太陽が現れ,夕には日が暮れてやがて暗い夜がやってくる。寒い冬が過ぎると花の咲き乱れる春がきて,昆虫も地中からはい出してくる。人間は生まれて成長し,やがて老いて死に至る。このような現象の中に人間は時が次々に流れ去って,再びもとには戻らないことを感ずる。時計の秒針やディジタルの秒数の変化を見ていると,時間の経過していくことがよく感じとれる。このような時の流れをくぎるのは地球の自転と公転の運動で,人間や地球上の生物は,生活のリズムを昼と夜の規則的な繰返しに合わせて今に至っている。この昼夜1日の時間を細分化して知らせてくれるものが時計である。時計とは時をはかる計器だということもできる。この場合,時とは時刻と時間の両方の意味をもっている。ふつうの置時計や腕時計の示す時分秒は時刻であり,ストップウォッチではかる時分秒は時間である。ストップウォッチではかれないような長い時間というものもあって,日数,月数,年数などの単位ではかる時間や,逆に原子や素粒子の研究者の対象になるようなナノ秒,ピコ秒などの微小時間の単位もある。これらの時間をはかるものも広い意味では時計に含まれるのかも知れないが,一般的には,時分秒を表示する時刻計と,1/5,1/10,1/100,1/1000秒程度の計測ができるストップウォッチを指すものと考えてよいであろう。もちろん時計には時間と分の表示のみで秒を表示しないものもあるし,時刻のほかに,年,月,日,曜日などの暦を表示する付加機能をもつものも多くある。時刻を示す時計とストップウォッチを一つの時計に組み込んだものは,クロノグラフchronographという特別な名称をもっている。
近年,時計は単独で使われるだけでなく,カメラ,ライター,ボールペンなどに組み込まれているほか,TV,VTRなどの電気製品のタイムスイッチにも広く普及している。またオートメーション化に付随して,制御機器各部分のシーケンス制御に時計が使用されているが,この用途では表示装置がない。タイマーまたはクロックと呼ばれるもので,時計としての外観はもっていなくても時計の基本的な機能は備えている。
日本語の時計に当たる英語はtimepieceであるが,ふつうはウォッチwatchかクロックclockのほうがよく使われる。ウォッチは腕時計や提げ時計(懐中時計)のように身につける時計をいい,日本ではこれを携帯時計と訳しており,一方,クロックは置時計,掛時計などと呼んでいる。
日本に初めて機械時計が渡来したのは,1551年(天文20),スペインの宣教師ザビエルによって大内義隆に献上されたのが最初とされている。時打ち装置をもつこの時代の時計は自鳴鐘と呼ばれた。時辰儀,土圭なども時計の古い呼名である。
時計の発達は人間社会,科学技術の発達と深い関係をもっており,とくに各時代とも時刻制度との関連がきわめて強い。社会の要請に応じて時計が発達し,時計の精度が高くなるにつれて社会が変化するというように,互いに影響を及ぼし合いながら今に至っている。
時計の歴史は日時計に始まる。太陽の動きにつれて木や岩などの影が長さと方向を変えていくことに気づき,これを時計として利用したものである。このような日時計の利用は前5000年ころのエジプトで始まったらしいが,やがて日影棒(ノーモンgnomon)と呼ばれる棒を地面に垂直に立てて日時計とするようになった。オベリスクの高い尖塔も日影棒として用いられたという説もある。夜の時間をはかるのには水時計が用いられた。前1400年ころエジプトで作られた水時計が現存している。底に穴をあけた容器の内側に目盛を刻み,中に入れた水の水面の高さから時刻を知るものであるが,水時計は中国でも古くから用いられていた(漏刻)。
現在まで続いている1日を24時間とする時間単位のもとを作ったのは古代エジプト人である。もちろんこの時代は不定時法,つまり夜と昼とをそれぞれ12に分割しただけのもので,季節により昼と夜との1時間の長さが異なる方式であったから,現在の1時間とは違う。機械時計ができ,それがある程度普及するのは14世紀のヨーロッパにおいてである。それまでの数千年間は,日時計,水時計がさまざまに改良くふうされてずっと用いられたほか,砂時計,ろうそく時計,ランプ時計などが簡便な道具として広く使用された。精度は問題にならぬくらい低いが,当時の社会生活には,これで不便はなかったものと思われる。また不定時法と真太陽時の社会であったから,季節による時間単位の伸縮や緯度による差があるために,時間感覚がきわめて粗雑であったろうと思われる。
機械時計については,だれが発明したのかはもちろん,いつ,どこででき上がったものかも不明である。歯車装置や重錘を使った駆動機構は,機械時計の出現以前から他の機械装置の一部として使用されていたが,時計機構が成り立つうえでもっとも重要なポイントである脱進機構についてはその起源が明らかでない。一説には8世紀ころ中国で作られ,それがヨーロッパに伝わったといわれるが,水時計に歯車などの機械装置を組み合わせたものを経て,おそらく13世紀の半ば以降に,バージ脱進機(脱進機)という時計固有の機構と歯車装置との組合せによって純機械時計と呼べるものがヨーロッパに出現したと推測されている。時計を駆動する動力は重錘である。歯車の軸に取り付けられたドラムにロープを巻きつけ,ロープの先端に重錘をつり下げたもので,重錘に働く重力の作用によって時計を動かす力を得ている。今も機械式の鳩時計に同様の原理を見ることができる。脱進機は重錘の作用による回転力で歯車装置が急速に回ってしまわないように抑制する役目を果たしており,これによって重錘は毎日1回の巻上げで時計を24時間駆動することができ,歯車装置は指針をゆっくり回転させたり,定時に鐘を鳴らしたりできるわけである。初期の時計は建造するという語が適切なくらい大型で建物の高い場所に設置された,いわゆる塔時計が多い。いかにも鍛冶屋の作った機械というできばえのものである。中世ヨーロッパにおいては,報時のための打鐘が時計のたいせつな役目であり,打鐘装置だけがあって,文字板や針をもたないものも多かった。
バージ脱進機は17世紀半ばの時計技術革新時代が到来するまで,約400年にわたる長い年月にわたって時計の唯一の抑制機構として生き続ける。この脱進機の構造は簡単で,のこぎりのような歯をもつ冠車(かんむりぐるま)と,その歯に交互にかみ合う2枚の角板のついた軸および軸の上端に取り付けられて往復回転運動をする棒てんぷとである。のちに,棒てんぷに代わって円形のはずみ車であるてん輪やひげぜんまいが,重錘の代りにぜんまいが使われるようになって,提げ時計の時代にもまだ生き残るのである。バージ脱進機時計は400年の間ほとんど進歩が見られないが,しだいに小型になるとともに,カレンダー装置や太陽,月,惑星の運動を示す天文時計のような複雑な機構をもち,外装部も貴金属,宝石をちりばめた精巧で高度に装飾的な,工芸品としてもすばらしい価値をもつ時計が作られた。これらは王侯貴族の権威や富の象徴として珍重された。
17世紀はG.ガリレイ,C.ホイヘンス,R.フック,J.ケプラー,I.ニュートンなどの天才が天文学,物理学,機械学などに顕著な業績をあげた時代であるが,時計の精度を向上させることにもおおいに情熱が注がれ,さまざまなくふう改良が試みられた。その中のいくつかの考案,発明は現代の時計にまで引き継がれている。その代表的なものは,振子,てんぷとひげぜんまい,アンクル脱進機である。ガリレイが振子の等時性を発見したのは1583年ころであるが,実際に精度のよい振子時計を完成したのはホイヘンスであり,1659年のことであった。腕時計の心臓といわれるてんぷ,ひげぜんまいの考案もホイヘンス(1675)の名誉に帰せられているが,弾性の法則で有名なフックも同じころにこの発明に成功していたといわれる。振子はクロックにのみ用いられ,てんぷ,ひげぜんまいはクロックにもウォッチにも用いられる。どちらもそれ自身で振動運動を繰り返す性質をもっており,振動の周期がほぼ一定,つまり等時性をもっていることが時計に組み込まれてその精度を飛躍的によくした理由である。
機械時計は下図の部分で構成される。
重錘やぜんまいは動力源である。この力は数個の歯車と脱進機を経て最終的に小さな力となって振動機(振子やてんぷ)に伝えられる。これは空気抵抗や摩擦などで振動が減衰するのを防ぎ,時計が動き続けるようにするためである。振動機への力の加え方は非常にたいせつで,できるだけ振動機の等時性を乱さないようなタイミングで力を加えられる脱進機が望ましい。振子やてんぷの発明に加えて脱進機の考案,改良が次々に行われ,バージ脱進機では冠形のがんぎ車と振子やてんぷが直接かみ合っていたものを,その中間に別の新しい部品を加えたアンクル式,デテント式など最近まで実際に使われたものを含めて多種の脱進機が試みられた。
この17世紀に始まった技術革新以前ドイツ,フランス,オランダ,イギリスなどにおいて時計製造がすでに工業化されており,時計工組合もできていたので,すぐれた発明,考案がいかされた時計が次々に製品化されて,高精度の時計が普及する時代を迎えることとなる。ことにこの時代イギリスは新しい実用的な時計の製造に成功し,それまで装飾性の高い時計で優位に立っていたフランスを押さえ,高品質で最大生産量を誇る時計生産国となった。またイギリスは産業革命をリードし,急速に経済力が伸びて世界の貿易,金融の中心の地位を獲得するに至ったが,資本主義の発達の中で,〈タイム・イズ・マネー〉の思想が社会に浸透して,時間に対する価値観が大きく変化し,労働を管理するために厳密な時間制度が導入されるようになった。このような社会の高度化に伴って,不定時法・真太陽時では不便になってくる。また時計の精度が向上すれば1年を通じて1時間の長さを同じにすることもできる。現在の世界的に統一された時刻制度が成立するまでには国ごとに変遷があるが,定時法の最初は14世紀イタリアにおけるものである。その後振子時計の発明によって各国に普及し,18世紀中ごろに現在の時刻制度に近い形でロンドンで採用が開始された。なお日本では16世紀に定時法に基づく時計が入ったが,これを当時の日本の不定時法に合わせるくふうが施されて,他国に例のない和時計の誕生につながった。
高精度の時計の出現を促した背景に,航海における船の位置の決定という問題もあった。船の現在位置の経度を正確に決定するためには高精度の時計が必要であり,実際に経度が測れる船舶時計ができるまでの模索時代の歴史は長く,ヨーロッパ各国の時計師たちがこれに取り組み,100年以上の歳月が費やされた。これ以前は大洋の航海は,緯度(南北位置)は天体の観測で決定できても,経度(東西位置)はほとんど勘に頼る状態であった。重大な難破で貴重な船,積荷,人命が失われることはしばしばであり,各国で多額の賞金をかけた経度測定法発見の奨励が行われ,イギリスのJ.ハリソンが完成した時計が1762年および64年に経度委員会の定めた基準を上回る成績を実際航海で実証した。この後も優れた時計師たちが経度測定時計(クロノメーター)に挑戦し,温度補正や等時性の改良に役だつ装置を考案,これが一般の時計の精度を著しく向上させる結果となった。
17世紀半ばの技術革新に引き続き,18世紀,19世紀にかけて脱進機とてんぷに重要な考案,改良が行われ,また新しい合金やルビー製軸受の発明も精度向上,小型化,製造の容易化などに非常に貢献している。なかでも1755年ころにイギリスのマッジThomas Mudge(1715-94)によって発明されたといわれるレバー脱進機は,てんぷを振動機としてもつ時計にはすべて使われるようになり,精度のよい小型,薄型の提げ時計の製造を可能にした。
提げ時計はイギリス,フランス,スイスなどで作られていたが,スイスが早くから薄型で精度のよい時計を作り始めたのに対して,イギリスは重厚堅牢な時計を作り続け,フランスは優美ではあったが新技術をとり入れるのが遅かったために,スイスの時計産業が急速に伸びた。その一因としてスイスの特異な分業システムがあげられる。小規模企業,家内工業クラスの多数の製造業者が専門分野を分担する形態である。19世紀初めにはアメリカに時計産業が発生する。そしてアメリカ式の合理的な大量生産システムを適用して,品質のよい時計を作り,スイスに脅威を与えるまでに成長した。この事実に気づいたスイス時計産業は大幅にアメリカ方式を採用し,部品加工を自動化して互換性をもたせて合理化を実行した。スイスの時計王国としての基礎がこれによって築かれたといえる。アメリカの時計は逆にスイス製に押され,第2次世界大戦後にはルビー入りの高級時計はほとんど壊滅の状態となった。しかし使い捨て時計といわれるピンレバーウォッチは大規模な生産システムの採用で低コストを実現し,スイスに対抗する生産力を維持することができた。
腕時計が便利なものとして一般の人に受け入れられ本格的な製造が開始されたのは第1次大戦の始まる前で,それ以来急速に流行の波に乗ってしだいに提げ時計に取って替わるようになる。さらに第1次大戦中および戦後に開発された,切れないぜんまい,耐衝撃装置,われないガラス,防水側などの採用でずっとがんじょうになり,機能的には自動巻き,カレンダーなどの装備されたものが多量生産,多量消費されるようになった。また電子工学の発達に伴い,24時間における進みや遅れの秒数を数分間のうちに知ることのできる測定機をはじめとし,時計のいろいろな特性を精密に診断できる装置が1950年代から実用化され,その結果,時計の基礎的な研究が著しく進み,高精度の時計を低コストで製造する生産技術が生まれた。
日本の近代的時計製造は明治10年前後に端を発し,長い間アメリカ製・スイス製時計の模倣時代が続くが,第2次大戦後急速に進展して独自の製品を開発し,品質,数量とも時計王国といわれたスイスを上回るまでに成長した。ことに水晶時計では69年にアナログ式腕時計が発売されて以来世界の時計産業をリードし続けている。
なお,機械時計の歴史上もっとも有名な時計師はパリに工房をもったブレゲーAbraham Louis Bréguet(1747-1823)である。自動巻き,永久カレンダー,目ざまし,耐衝撃,報時など考えられる限りの付属機能を備え,誤差を消去するためのあらゆる考案を成し遂げたメカニズムの天才であり,また優雅で上品な芸術作品というべきデザインの妙を尽くした時計は,人間の成し遂げた最高傑作といえる。
人力でぜんまいを巻く代りに電気の力を利用しようとの発想が,18世紀半ばから19世紀の初めにかけて電池時計,電気時計を生んだ。例えば,ぜんまいを一定の時間間隔で電動機によって巻き上げる方式,振子やてんぷを電磁石の力で駆動する方式などのほか,アメリカのウォレンHenry Ellis Warrenによる電灯線の周波数に同調して回転する同期電動機を利用した方式(1918)など多種類の時計が作られた。また1台の正確な親時計から出る電気信号で多数の子時計を同時に動かす親子時計は鉄道の駅やビルの各室に設置されることが多い。機械時計から水晶時計への過渡的な段階で,音叉時計,電子式てんぷ時計などが作られたが,水晶時計の出現とともに姿を消した。水晶時計は1927年にアメリカで生まれた。水晶発振器は最初電気通信に使われていたのだが,周波数安定性が著しくよいことから,リーフラー,ショートなどの自由振子時計に代わって天文時計に使われるようになった。リーフラーの最高精度は1日に1/1000秒だが,地震があるとこの精度は出せない。水晶時計は地震の影響を受けず,精度はリーフラーを上回る。この精度は地球の自転,公転の不規則性を発見できるほど高いものであり,それまで絶対的な時の基準と考えられていた地球の運動が,実はいろいろな変動の要素を含むものであることがわかった。これは時計の歴史上最大のできごとだったといえる。その後49年にはアメリカで,水晶時計の100倍にも達する精度をもつ原子時計が生まれ,67年からは,それまで平均太陽時によって定めていた時間の標準に代わって,セシウム原子の共振周波数によって秒を定義することが国際度量衡会議で採択された。水晶時計もICの進歩に伴って急速に構造の簡素化,小型化が進み,69年にはアナログ式腕時計が発売されるまでになった。それ以来,LEDディジタル式,液晶ディジタル式が相次いで商品化され,大量生産による価格の低下とともにウォッチ,クロックの全種類にわたって水晶時計の時代へ突入する。この段階で日本は水晶時計の生産で世界の時計生産のトップの座を占めるに至った。液晶ディジタル時計は,全電子時計とも呼ばれ,機械的な部品が不要で組立ても簡単なので,コストが安く,故障や電池の消耗の場合,修理せずに新しいものと買い替える,いわゆる使い捨て時計として,機械時計におけるピンレバーウォッチに代わるものとしておおいに普及した。しかも安価ではあっても高精度で,最高級機械時計よりはるかによく時間が合い故障も少ない。日本からの水晶時計の輸出も急伸したが,その中には部品輸出も含まれており,工賃の安い東南アジアで組立て完成品とする新しい生産形態が生まれた。とくに香港でのディジタルウォッチの生産は目ざましく,たいへん安価な時計が大量に世界市場に流れ,日本やスイスの時計産業が大きな脅威にさらされるほどに成長した。
→時刻
執筆者:小野 茂
時計すなわち時間をはかり時刻を示す精密機器またはエレクトロニクス機器を製造する産業である。時計を用途別に分けるとウォッチ(腕時計,懐中時計など)とクロック(置時計,目ざまし時計,掛時計など)に,動力別に分けると機械時計と電気時計に,表示方法別に分けるとアナログ式とディジタル式となる。世界のおもな生産国はウォッチでは日本,香港,スイス,クロックでは香港,台湾,ドイツ,日本である(ムーブメント換算ベース。ムーブメントとは各種内装部品から構成される機械体)。
1970年代後半からの時計のクォーツ化は,時計工業を精密機器工業からエレクトロニクス機器工業へと急速に転換させている。高精度,多機能化,メインテナンスフリーなど数々のメリットをもつクォーツ化は,ICの電子部品の開発技術と量産技術の発達によりもたらされたものである。ウォッチのクォーツ化による影響は,(1)日本,香港の台頭,スイスの停滞などによる生産・供給シェアの変化,(2)時計メーカーのコンピューター周辺機器など,他のエレクトロニクス業種への進出,(3)エレクトロニクスメーカーの時計業界への新規参入,(4)部品数の減少による下請部品メーカーの受注減,小売店の修理収入減などをもたらした。とくに,クォーツ化は世界の時計工業における日本の位置を一段と高めた。80年には,世界の時計大国であるスイスの時計産業を抜き,日本が世界一の時計大国に躍り出た。この背景にはIC等電子部品の急速な値下りによる大幅なコストダウンを生み出したことがある。このことは一方ではウォッチの低価格品を中心に生産拡大競争をもたらし,このため,(1)製品ライフサイクルの短縮化,新製品開発競争の激化とともに,企業間格差を拡大させ,(2)流通面では大型のディスカウント・ストアの出現を促し,(3)低価格品と高価格品の二極分化を生み出している。1970年代後半から80年代初めにかけて日本のウォッチ市場では,〈アナログ,ディジタル〉論議が湧き起こったが,ディジタルウォッチは,低価格にとどまらず,ストップウォッチ,デュアルタイム,センサー機能などの付加機能を数多く備え,それまでアナログ式ウォッチが独占していたウォッチ市場に大きなインパクトを与え中心的地位を占めた。
世界のウォッチ生産個数(ムーブメント換算ベース,1997年推計値)は12億6000万個,うち日本が5億1000万個,香港3億2000万個,スイス1億個の順となっている。日本のウォッチ業界は典型的な寡占状況にあり,セイコー・グループ,シチズン時計,カシオ計算機の3社で,全生産額の80%以上のシェアを占めている。
一方,クロックもクォーツ化の進展によって,日本の時計工業を発展させた。世界のクロック生産個数(ムーブメント換算ベース,1997年推計値)は4億4000万個,うち香港が2億3000万個,台湾5000万個,ドイツ4000万個,日本3000万個の順となっている。またクロックはウォッチと異なり,かつては日本が供給していたムーブメントを,今や東南アジアが自前で生産する能力を有するようになった。
日本の時計工業は江戸時代の和時計にまでさかのぼる。しかし近代的工業としての時計工業は明治に入ってからスタートした。1875年に掛時計(ボンボン時計)が作られ,80年には懐中時計が製作された。81年には服部時計店(のち服部セイコー。現,セイコーホールディングス)が個人創業され,92年には服部時計店の工場精工舎が開設されている。その後93年に愛知時計製造合資会社(現,愛知時計電機),99年高野時計金属品製作所(のちリコー時計。現,リコーエレメックス),1930年にシチズン時計(現,シチズンホールディングス)が尚工舎時計研究所(1918創業)を買収して設立された。その間,1895年に懐中時計の国産化が精工舎で,1913年に腕時計の国産化が精工舎で行われた。その後,時計工業は順調に発展し37年には511万個(ウォッチ153万個,クロック358万個)を生産し,戦前のピークとなった。
第2次大戦後は,朝鮮戦争を契機に復興し,1950年代後半からの高度成長期に急速に加工技術の精度と生産性が高まり,性能,品質が向上した。ウォッチにおいては耐震装置,防水,カレンダー付きなど多機能化し,クロックにおいても電気時計が普及した。国際競争も強まり,ウォッチでは80年にスイスを抜き,クロックでは1977年に西ドイツと肩を並べ,ウォッチ同様クォーツ化により80年には量,質とも世界第1位の生産国となった。
スイスの時計工業は16世紀のジュネーブにまでさかのぼる。しかし,主力のウォッチについてはクオーツ化に遅れをとり,中級品では日本に,低級品では香港に押され,生産が伸び悩んでいる。とくにアメリカを大きな顧客としていた低価格のピンレバーウォッチが,香港を中心とする東南アジアの低価格のディジタルウォッチにとってかわられたのがひびいている。スイスの時計工業は,家内工業的な組立工場から,比較的近代的な一貫メーカーまで,1600社を超える企業が1970年には存在したが,スイス時計業界の古い保守的な構造体質の改善と企業の近代化,合理化が要望されるようになり,ドラスティックな再編劇が銀行主導で進行した。
その最大なものは,スイスにおける二大時計グループであるASUAG(スイス時計総合株式会社)とSSIH(スイス時計工業株式会社)の合併である。両グループは,ともにかねて業績不振に陥っており,合併前の累積赤字は,両社で3億5700万フラン(日本円換算約430億円)であったという。総額10億フランの強力な銀行支援を得て,83年末合併が成立したが,これによりスイス時計業界内に新しい結束態勢が生み出されることになった。
香港の時計工業は時計バンド,時計のケースなど時計周辺の製造から始まり,60年代にはスイスなど海外から部品輸入をして機械式時計の組立てが始まった。また労働者賃金が低廉であったこと,国際貿易の面で地理的条件に恵まれていたことなどから,70年ころから飛躍的に生産が増加していった。
執筆者:徳田 賢二
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… こうした点を振り返ると,時間の問題は,およそ人間と世界にかかわるあらゆる問題の起点であり,一方で不易の問い(時間とは何か,過去,未来,現在の区別とは何か,時間は実体的存在であるか,など)が繰り返し登場する主題であると同時に,他方で,優れて現代的,社会的な問題を生む宝庫でもあると言えよう。空間暦(こよみ)時刻【村上 陽一郎】
【時間認識の文化的差異】
われわれは暦や時計によって経験の流れを〈勤務時間〉と〈休み〉,あるいは〈播種期〉〈除草期〉〈収穫期〉といった意味をもつ単位に分割している。時間は,分割された意味単位とそれらのつながりとして社会的に形象化される。…
…したがってこのようにして定めた時間は季節によって異なるばかりではなく,1日でも昼夜でその長さが異なっていた。きわめて不便ではあるが,正確な時計がない時代,実生活はこの時法によらざるを得なかった。これを不定時法と呼ぶ。…
…何が精密機械であるかについては必ずしも明確な分類はない。通産省の《機械統計年報》では計測機器,光学機械器具,時計の製造業を精密機械工業としている。また総務庁統計局の《日本標準産業分類》(1993改訂)では計量器・測定器・分析機器・試験機,測量機械器具,医療用機械器具・医療用品,理化学機械器具,光学機械器具・レンズ,眼鏡,時計・同部品を製造する産業を中分類の精密機械器具製造業としている。…
※「時計」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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