咸鏡道(読み)かんきょうどう(その他表記)Hamgyǒng-do

改訂新版 世界大百科事典 「咸鏡道」の意味・わかりやすい解説

咸鏡道 (かんきょうどう)
Hamgyǒng-do

朝鮮半島の北東部の地方。朝鮮八道の一つで,関北地方とも呼ばれる。現在は朝鮮民主主義人民共和国に属し,後述のように2直轄市,3道に分かれている。

本道の中央を北東から南西方向へ標高2000m以上の咸鏡山脈が走り,本道のほぼ全域を山地が覆っている。咸鏡山脈の南東斜面はところどころに数百mの断層崖を発達させた山地が日本海沿岸まで迫り,広い平地がほとんどみられない。海岸線は比較的単調だが,羅津,清津など天然の良港がかなりみられる。東朝鮮湾頭には咸興,竜興の二つの平野が連なり,本道唯一の平野地帯となっている。咸鏡山脈の北西斜面は鴨緑江,豆満江の河床にかけてゆるやかな傾斜面をもつ高原台地が広く分布している。白頭山から南南東方向へ走る摩天嶺山脈を境として東を茂山高原,西を蓋馬(かいま)高原と呼び,朝鮮の屋根を形成している。高原部の年平均気温は2~3℃,冬には-20℃以下の酷寒となり,カラマツ,朝鮮モミなどの亜寒帯性針葉樹林帯が厚く分布している。海岸地帯は年平均気温が6~8℃,1月の平均気温は-5~-9℃に下がるが,北端の雄基湾以外はいずれも不凍港である。

三国時代には高句麗の支配下に置かれたが,統一新羅の成立(676)以来,高麗時代末まで,中国東北部やシベリア地方の諸種族が渤海,金などの王国を建てて支配した。高麗末に咸興出身の李成桂が本道の大半を支配下に置くとともに高麗王朝を滅ぼし,1392年李王朝を創建した。李朝は豆満江一帯の国境地帯の防備を固める一方,南部住民を本道に移住させ,朝鮮の一体化に努めた。そして李朝末にはむしろ朝鮮人が豆満江対岸の間島(かんとう)地域に進出し,谷あいの各地に朝鮮人集落を形成していった。日本植民地時代にはまず高原部の山林資源が注目され,豆満江や鴨緑江沿いに林業基地が建設された。1930年代には蓋馬高原の水力を利用した大型発電所が建設され,これを背景に各種の化学工業,金属工業が沿岸の咸興,清津に発達し,北朝鮮の重化学工業地帯を形成した。これらは,おおむね日中戦争のための軍需物資を供給する兵站(へいたん)基地となり,これを重視する立場は〈北鮮ルート論〉と呼ばれた。独立後朝鮮民主主義人民共和国は咸鏡北道の中心都市である清津,咸鏡南道の咸興を拡大して直轄市に昇格させる一方,蓋馬高原を中心とする地域を咸鏡南道から分離して両江道を設立するなど本道を行政的には2直轄市,3道に分割した。咸鏡北道の道都は金策,咸鏡南道の道都は新浦で,南北道は摩天嶺を境とする。両江道の道都は恵山である。

高原部は水力資源をはじめ,鉄鉱石,石炭などの地下資源,山林資源など朝鮮における自然資源の宝庫であり,これを背景として沿岸の清津には金属工業基地,咸興には化学工業基地が形成されている。工業原料の自給をめざす共和国は朝鮮の屋根とされる蓋馬高原にも開発の手をのばしているが,輸送網の建設が課題となっている。咸興・竜興平野を除くと有力な農業地帯がないが,山間の緩傾斜面を利用した牧畜業が盛んに行われている。また本道の近海にはリマン海流が流れこみ,メンタイタラニシンなどの豊富な漁場であり,清津,金策港などを基地とする漁業が行われている。
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出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報

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