唐順之(読み)とうじゅんし(その他表記)Táng Shùn zhī

改訂新版 世界大百科事典 「唐順之」の意味・わかりやすい解説

唐順之 (とうじゅんし)
Táng Shùn zhī
生没年:1507-60

中国,明代の文学者,思想家。字は応徳。荆川と号し,明末に襄文と追諡(ついし)された。江蘇武進の人。嘉靖8年(1529)の進士。七子派の古文辞模擬に過ぎるあまり,文のリズムを失った点を批判し,唐・宋の伝統的な古文への復古を主張した。〈董中峯侍郎文集序〉に〈開闔(かいこう)・首尾・経緯・錯綜の法〉というのは,その理論である。王慎中,帰有光とあわせて,明代の唐宋派古文の三大家に数えられる。天文,楽律,地理,兵法,数学(三角)などから文学に関するまで,きわめて博学で,多くの著述がある。〈文編〉は〈左・右・文・武・儒・稗〉の6編の一つで,古代から宋までの古文を選録している。また1554年(嘉靖33)から倭寇平定に功をたて,思想家としては王陽明の門下王畿(竜渓)の学を継承している。
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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「唐順之」の意味・わかりやすい解説

唐順之
とうじゅんし
Tang Shun-zhi

[生]正徳2(1507)
[没]嘉靖39(1560)
中国,明の学者,文学者。常州武進 (江蘇省) の人。字,応徳。号,荊川。嘉靖8 (1529) 年進士に及第。翰林院編修となり歴代の実録の校訂従事。しばしば上官と衝突して野に下り教育研究に努めたが,倭寇 (わこう) の暴虐を見て官に復し,みずから海上で指揮して防衛にあたり,巡撫淮揚に進んで病没した。きわめて博学で,数学の三角法にも通じ,王畿に学んで陽明学者としても名があった。散文作家としては古文辞派全盛のなかにあって,心情の素直な流露を重視する達意の文を説き,帰有光,王慎中とともに三大家と称された。詩文集『荊川先生集・外集』 (20巻) 。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「唐順之」の意味・わかりやすい解説

唐順之
とうじゅんし
(1507―1560)

中国、明(みん)代中期の文学者。字(あざな)は応徳(おうとく)、号は荊川(けいせん)。武進(江蘇(こうそ)省)の人。1529年(嘉靖8)会試首席合格。倭寇(わこう)防御に功あり、官は右僉都御史(ゆうせんとぎょし)、鳳陽巡撫(ほうようじゅんぶ)に至った。学識博大で天文、地理、音楽、兵法、数学にまで通じ、古今の文献を内容別に編集し、左、右、文、武、儒、稗(ひ)の六編を著した。王陽明の弟子王畿(おうき)に良知説を学び、散文家としては、初め偽古文派七子(しちし)に倣った文を制作したが、のち悟って古文家として王慎中(おうしんちゅう)、茅坤(ぼうこん)、帰有光(きゆうこう)らと並称された。詩文集『荊川先生文集』『外集』(和刻『唐荊川文粋』)などがある。

[都留春雄]

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世界大百科事典(旧版)内の唐順之の言及

【中国文学】より

…もっとも,韓愈のスタイルは独特のものであって,七子らはそれをまねることを好まなかった。 七子らの主張に反対して,韓・柳の古文を学ぶべきことを公言したのは唐順之と帰有光である。唐宋八家の名もこのときに定まったのであった。…

※「唐順之」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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