中世の南朝と北朝のいずれが正統であるかについての論争。1911年(明治44)政治問題となった。この問題については、南朝正統説の北畠親房(きたばたけちかふさ)『神皇正統記(じんのうしょうとうき)』、北朝正統説の『梅松論(ばいしょうろん)』のごとく古来から議論のあるところであったが、一般的には北朝正統説が優位で、天皇の歴代もそれに従ってきた。近世において、名分論にたつ水戸藩の『大日本史』や頼山陽(らいさんよう)の『日本外史』などにより南朝正統説が強く主張されたが、近代になると、帝国大学の考証史学者らにより両朝併立説がとられるに至った。1903年より小学教科書は国定となったが、最初の国定教科書である『小学日本史』は併立説であり、その改訂版で09年刊の『尋常小学日本歴史』もそれを踏襲した。ところが翌10年末から教育者間で問題視され始め、11年1月『読売新聞』に両朝併立説を非難する投書が載ったことから表面化、2月衆議院議員藤沢元造が政府(第二次桂(かつら)太郎内閣)に質問書を提出して処決を迫り政治問題化した。藤沢らは、おりからの大逆事件(10年6月検挙開始、11年1月処刑)と関連させ、こうした事件が起こるのも文部省の歴史教育の方針が当を得ないからだと論難。進退問題に進展しかねない状況下で、桂首相は藤沢に会見して教科書の改訂を約し、これを受けて小松原英太郎文相は同教科書の使用禁止を命令、さらに執筆者の喜田貞吉(きたさだきち)文部省編修官を休職とし、教科書の改訂を強行するに至った。改訂された教科書では「南北朝」の項(第23項)が「吉野の朝廷」に変わり、天皇の歴代表から北朝は除かれた。以後、田中義成(よしなり)『南北朝時代史』(1922)などが両朝併立説を主張したが、一般には南朝正統説が太平洋戦争敗戦まで支配した。戦前における代表的な学問弾圧事件であり、皇国史観を国民に強制し天皇制イデオロギー確立を促した事件であった。
[阿部恒久]
『喜田貞吉著『還暦記念六十年之回顧』(1933・私家版)』▽『向坂逸郎編『嵐のなかの百年――学問弾圧小史』(1952・勁草書房)』
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南北朝時代の南朝と北朝のどちらが正統かという議論。両朝は自己の正統性を主張したが,南朝側の北畠親房が著した「神皇正統記(じんのうしょうとうき)」や「太平記」の影響は強く,南朝が消滅して皇統が北朝に一本化された後も影響力をもった。江戸時代には,儒教思想にもとづく南朝正統論が強くなった。水戸藩の「大日本史」や新井白石の「読史(とくし)余論」などは南朝を正統とする。幕末には南朝正統論は武家政権を否定する議論となり,幕府を脅かした。維新後,学界では南北朝並立説が主流だったが,1911年(明治44)以後政府は歴史教育に介入し,45年(昭和20)の敗戦まで南朝を正統とした。
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