明治天皇の暗殺を計画したという理由で多数の社会主義者、無政府主義者が検挙、処刑された弾圧事件。幸徳(こうとく)事件ともいう。
日露戦争反対を機に高揚した社会主義運動に対し、政府は機関誌紙の発禁や集会の禁圧、結社禁止などの抑圧を加え、1908年(明治41)6月の赤旗事件で堺利彦(さかいとしひこ)、大杉栄(さかえ)らの中心的人物を獄に送った。これ以後、実質的な運動はほとんど展開できない状勢になり、09年5月に幸徳秋水、管野(かんの)すがらの創刊した『自由思想』も発禁の連続で廃刊を余儀なくされ、合法的な運動は不可能になる。迫害に窮迫した彼らは急速に、直接行動・ゼネストによる革命の実現に突破口をみいだそうとし、とくに弾圧への復讐(ふくしゅう)の念に燃えた管野は、宮下太吉(みやしたたきち)、新村忠雄(にいむらただお)、古河力作(こがりきさく)とともに、天皇の血を流すことにより日本国民の迷夢を覚まそうと爆裂弾による暗殺計画を練った。宮下は長野県明科(あかしな)の製材所で爆裂弾を製造し、09年11月爆発の実験も試み、10年1月には東京・千駄ヶ谷(せんだがや)の平民社で投擲(とうてき)の具体的手順を相談するが、幸徳は計画に冷淡で著述に専念しようとした。
取締当局はスパイを潜入させたりなどしてこの計画を感知し、1910年5月25日の長野県における宮下検挙を手始めに、6月1日には神奈川県湯河原(ゆがわら)で幸徳を逮捕。政府はこの長野県明科爆裂弾事件を手掛りに一挙に社会主義運動の撲滅をねらって、幸徳が各地を旅行した際の革命放談などをもとに、大石誠之助(おおいしせいのすけ)らの紀州派、松尾卯一太(まつおういちた)らの熊本派、武田九平(たけだきゅうへい)らの大阪派、さらに森近運平(もりちかうんぺい)、奥宮健之(おくのみやけんし)、内山愚童(うちやまぐどう)ら26名を起訴するほか、押収した住所録などから全国の社会主義者数百名を検挙して取り調べた。第二次桂(かつら)太郎内閣下の平田東助(とうすけ)内相、有松英義(ひでよし)警保局長、平沼騏一郎(きいちろう)司法省行刑局長兼大審院検事、松室致(まつむろいたす)検事総長らの指揮により全国的な捜査、取調べと裁判が進められ、元老山県有朋(やまがたありとも)をはじめ政府部内や枢密顧問官らの強い圧力を受けて、事件全体が終始政治的に取り扱われた。
刑法第73条の大逆罪に問われたため、裁判は大審院における一審即終審で行われた。11月1日予審意見書が大審院に提出されたのち、同9日公判に付すことを決定、厳重な警戒下、12月10日から裁判長鶴丈一郎(つるじょういちろう)のもとで公開禁止の公判が開始された。弁護人は鵜沢聡明(うざわそうめい)、花井卓蔵(たくぞう)、今村力三郎(りきさぶろう)、平出修(ひらいでしゅう)らであった。公判はほとんど連日開かれ、12月25日検事の論告があり、平沼は総論で「被告人ハ無政府主義者ニシテ、其信念ヲ遂行スルノ為大逆罪ヲ謀ル、動機ハ信念ナリ」と述べ、最後に松室が全員に死刑を求刑、27日から花井を先頭に弁護人の弁論があり、1人の証人を審問することもなく結審した。早くも1911年1月18日に判決言渡しがあり、全員有罪で有期刑2名以外は24名が死刑とされた。翌19日天皇の恩命として死刑被告中の坂本清馬(せいま)、高木顕明(けんめい)ら12名を無期懲役に特赦減刑、一方では異例の早さで24日には幸徳、大石、森近、宮下ら11名を、翌25日に管野の死刑を執行した。無期・有期刑の14名は秋田、諫早(いさはや)(長崎県)、千葉の各監獄に送られ、うち5名は獄中で縊死(いし)・病死した。幸徳が獄中で遺著『基督(キリスト)抹殺論』を叙述したほか、詳細な「陳弁書」で裁判批判を展開するほか、管野の「死出の道草」をはじめ、手記や遺書が書き残されている。
管野がその手記に「今回の事件は無政府主義者の陰謀といふよりも、むしろ検事の手によって作られた陰謀といふ方が適当である」と記しているように、幸徳、管野、宮下、新村、古河の5人で協議され、しかも幸徳を除いた4人で実行策が練られただけの幼稚な天皇暗殺計画をフレーム・アップし、事件と直接無関係な社会主義者多数を巻き込んだこの事件は、桂内閣が社会主義運動の根絶をねらって仕組んだ史上空前の大弾圧であった。全国を吹き荒れた大弾圧の暴風により、社会主義運動は「冬の時代」と形容されるほど逼塞(ひっそく)させられる。職業を奪われ、学校を追われ、生活を破壊されたりするなどして多くの転向者も出したが、わずかに生き残った社会主義者は、堺利彦らの売文(ばいぶん)社に閉じこもったり、大杉や荒畑寒村(かんそん)のように文学の場に身を寄せて『近代思想』を発刊したり、片山潜(せん)や石川三四郎のように亡命したりなどして「冬の時代」の寒風に耐えた。
この事件は政府の巧みなキャンペーンで一般社会に社会主義の恐ろしさを植え付けると同時に、文学者にも大きな衝撃を与えた。徳冨蘆花(とくとみろか)は一高で「謀叛(むほん)論」を講演して幸徳らを殉教者と訴え、石川啄木(たくぼく)は事件の本質を鋭く見抜いて社会主義の研究を進め、森鴎外(おうがい)や永井荷風は事件を風刺する作品を書いている。欧米の社会主義者も日本政府に多数の抗議電報などを送るなど、抗議運動を展開した。
1961年(昭和36)、唯一人の生存者坂本清馬と、森近運平の妹栄子が東京高裁に再審の請求をしたが、65年却下となった。
[荻野富士夫]
『塩田庄兵衛・渡辺順三編『秘録・大逆事件』上下(1959・春秋社)』▽『大逆事件記録刊行会編『大逆事件記録』(1972・世界文庫)』▽『神崎清著『革命伝説』全四巻(1968~69・芳賀書店)』▽『絲屋寿雄著『増補改訂大逆事件』(1970・三一書房)』▽『大原慧著『幸徳秋水の思想と大逆事件』(1977・青木書店)』
幸徳事件ともいう。明治天皇暗殺を計画したとの容疑で多数の社会主義者,無政府主義者が逮捕・処刑された事件。事件は,1910年5月宮下太吉ら4人が爆発物取締罰則違反で検挙されたのがきっかけで,その後,検挙者は全国各地で数百名にものぼった。うち26名が刑法73条の大逆罪にあたるものとして起訴された。同年12月10日から29日まで大審院特別刑事部は16回の公判を非公開でおこない,11年1月18日判決(これのみ公開,裁判長鶴丈一郎)を宣告した。表のように幸徳秋水(伝次郎)ら24名は大逆罪により死刑,2名は爆発物取締罰則違反の有期懲役で,大審院一審のみの終審となった。翌19日坂本清馬ら12名は明治天皇の特赦により無期懲役に減刑された。1月24日午前8時の幸徳に始まり,30~40分おきに11名が市谷の東京監獄刑場において死刑の執行をうけ,管野スガのみ翌朝死刑となった。戦前の四つの大逆事件(虎の門事件,朴烈事件,桜田門事件)のうち最初のもので,大半の被告は天皇,皇太子の暗殺計画とは無関係で,近代日本の裁判史上最大の〈暗黒裁判〉であった。この弾圧の威力は大きく,社会主義運動はもとより労働運動などもしばらくは〈冬の時代〉に入ることを強いられた。事件の反響は大きく,日本の文学者,石川啄木,徳冨蘆花,森鷗外,永井荷風らが当時の作品あるいは日記などで政府に対する批判姿勢を表現しており,国内だけでなく全世界に衝撃を与え,アメリカ,イギリス,フランスなどで抗議運動が起こり,社会主義者たちが日本政府に対し抗議・質問を浴びせた。
無期懲役となった12名のうち5名は獄死,1929年以降7名が仮出獄したが,敗戦時までに成石勘三郎,武田九平が死去(小松丑治は1945年10月に死去),47年2月24日に坂本と岡林寅松,48年6月26日に崎久保誓一,飛松与次郎が刑の失効の特赦をうけた。しかし55年までに坂本以外はすべて死去した。判決は当時国内の一部の新聞に報道されたにすぎず,内容の検討・批判は許されず,事件の真相究明が本格的に始まったのは戦後になってからである。
判決によると,1908年6月の赤旗事件で社会主義者が弾圧されたのち,その報復のため幸徳は大石誠之助,森近運平,のちに松尾卯一太も加えて〈諸方衙を焼毀し,当路の顕官を殺し,且つ宮城に迫りて大逆罪を犯す〉との陰謀を企てた。また別に幸徳,管野は,宮下,新村忠雄,古河力作が09年2月以来爆弾を試作し,大逆の計画をもっているのを知り,〈爆裂弾を以て大逆罪を犯し革命の端を発せん〉ことを協議した。さらに内山愚童は09年1月に幸徳,管野を訪ね〈皇太子殿下を指斥し,弑逆を行ふべき旨〉と〈爆裂弾あれば身命を抛て革命運動に従事すべき意思〉を告げ,準備をすすめた。この三つの謀議をまとめて,ひとつの大逆事件が形成されたとしたのである。しかし,実際に計画をすすめたのは宮下,新村,古河,管野の4人とみられ,被告の大部分は,単に彼らと顔見知りであるというだけで事件と関連づけられた。幸徳の場合は〈事件に関係ないわけがない〉というまったく官憲の推量だけで検挙され,証拠はきわめて薄弱であった。坂本にいたっては幸徳方に書生として同居していたことが根拠となっている。
判決から50年目,唯一人の生存者坂本と森近の実妹栄子は,第2次大戦直後から生存者と連絡をとりあっていた森長英三郎弁護士らを代理人として大逆事件再審請求の申立てを東京高裁に提出した。以来再審手続にもとづく公開裁判を通じて,その真相は全国民の前に提示された。1960年2月には〈大逆事件の真実をあきらかにする会〉も結成されている。新たな真相究明の努力もすすみ,弁護側の証拠資料は108点の多きを数えた。そこでは,元老山県有朋をはじめ明治政府の裁判への関与,〈奔馬の如き裁判〉(大逆事件弁護人今村力三郎の言),拷問による聴取書と事件のでっちあげ過程等事件と裁判の実態が明らかにされた。また宮下,管野,新村,古河のいわゆる〈明科(あかしな)事件〉の謀議はかろうじて推定しうるとしても幸徳の関係は疑わしいこと,しかし爆発物取締罰則違反の2名を加えた計7名を除く19名は少なくとも冤罪(えんざい)であるという慎重な主張もおこなわれた。〈明科事件〉を唯一の口実として,全国にわたる大規模な事件をでっちあげたことが明白にされたのである。
しかし1965年12月,長谷川成二裁判長は他の裁判官との合議の有無に疑問を残したまま請求を棄却した。ただちに特別抗告の手続がおこなわれたが,最高裁は67年7月大法廷横田正俊裁判長以下14名の裁判官の連署をもって,この特別抗告の請求を棄却した。ここに,裁判の場で大逆事件の真相を究明することはいちおう終止符が打たれたが,歴史家や〈大逆事件の真実をあきらかにする会〉等によって運動は続けられている。
執筆者:橋本 哲哉
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幸徳事件とも。明治天皇暗殺を計画した容疑で,多数の社会主義者・無政府主義者が逮捕・処刑された事件。赤旗事件以後社会運動の弾圧が強化されるなかで,1910年(明治43)5月,まず宮下太吉ら4人を爆発物取締罰則違反で検挙し,つづいて全国各地で事件に無関係な者も含めて数百人を検挙。うち26人が刑法の大逆罪にあたるとして起訴された。大審院は1審のみの非公開公判で幸徳秋水ら24人を死刑(坂本清馬ら12人は特赦により無期に減刑),新田融(とおる)ら2人を有期刑とした。幸徳らは11年1月24・25日に処刑。以後,社会運動は「冬の時代」を迎えた。判決後50年目の61年(昭和36),唯一の生存者坂本らは再審を請求したが,最高裁で棄却された。
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…06年日本社会党に参加,幸徳秋水ら直接行動派と対立している議会政策派を支持する。大逆事件に際しては《ユマニテ》などを通して広く世界に,日本政府の弾圧ぶりを紹介し,国際的に反響を引き起こす。14年渡米し,サンフランシスコを中心に活躍,雑誌《平民》(1916‐19)を発行する。…
…しかしロシア革命の現実に幻滅し,21年ソ連を去り,以後イギリス,フランス,カナダなどに居住し,スペイン内戦に際しては共和派支援に活躍した。なお,ゴールドマンは大逆事件に対する国際的な抗議キャンペーンの先頭に立ち,また伊藤野枝ら日本のアナーキストにも敬愛された。【野村 達朗】。…
…徳米300俵を数える郷士の家に生まれたが,小作人の悲惨を救うべく,土地問題の解決に取り組んだ。1902年,東京で土地復権同志会を創立し,全国遊説も行ったが,大逆事件に関連しての弾圧を受けて,同会は自然消滅の道をたどった。その理論は,天賦の人権と同様に,天成の土地は人類がその享有権を均等にもつとする。…
…いずれの内閣も,日露戦争を契機に発言権を強めてきた金融資本の利害を反映した財政政策を展開し,軍拡と本格的な植民地経営を推進する点では共通していた。しかし,1907年の戦後恐慌を契機に官営工場や大規模な工場・鉱山などでストライキが続発し,中小ブルジョアジーによる廃税運動が起こり,厳しい社会主義取締りからいわゆる大逆事件を引き起こすなど,ようやく戦後社会の諸矛盾が噴出することになった。 一方,戦後の国際政治も複雑化した。…
※「大逆事件」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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