嘉祥寺(読み)かじょうじ

精選版 日本国語大辞典 「嘉祥寺」の意味・読み・例文・類語

かじょう‐じカジャウ‥【嘉祥寺】

  1. [ 一 ] 京都市伏見区深草瓦町にあった真言宗の寺。嘉祥四年(八五一文徳天皇仁明天皇遺志により清涼殿を移して創建開山は空海の弟子真雅。平安時代末期に仁和寺別院となり、応仁文明の乱により廃絶。深草聖天。
  2. [ 二 ] 京都市伏見区深草坊町にある天台宗の寺。寛文二年(一六六二)空心僧都が廃絶した[ 一 ]を再興したもの。
  3. [ 三 ] 中国の寺。浙江省紹興の会稽山にある。東晉時代、三七〇年頃の創建といわれ、隋代、嘉祥大師吉蔵が三論宗講座を開いた。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「嘉祥寺」の意味・わかりやすい解説

嘉祥寺(中国)
かじょうじ

中国、浙江(せっこう/チョーチヤン)省紹興(しょうこう/シャオシン)府会稽(かいけい)にある寺。東晋(とうしん)の孝武帝(在位372~397)のとき、瑯(ろうや)の王薈(おうかい)が竺道壱(じくどういつ)のために建立した名刹(めいさつ)である。竺道壱は律行厳正をもって名をなし、九州都維那(といな)とよばれ、嘉祥寺も道壱の名とともに広く知られた。のちに慧虞(えぐ)、慧皎(えこう)らが住したが、梁(りょう)の慧皎はこの寺にあって『高僧伝』を著した。さらに隋(ずい)の開皇年中(581~600)吉蔵(きちぞう)が住持し、講席に連なる者1000余人に及び、三論宗の牙城(がじょう)ともいわれ、吉蔵は嘉祥(かしょう)大師とよばれた。琅邪王氏出身の王羲之(おうぎし)7代の孫である書家の智永(ちえい)もまた、この寺で読書したと伝える。

[里道徳雄]


嘉祥寺(京都市)
かじょうじ

京都市伏見(ふしみ)区深草(ふかくさ)坊町にある天台宗に属する寺。850年(嘉祥3)仁明(にんみょう)天皇の勅命により皇太子道康(みちやす)親王が創建し、その年号を寺号とした。851年(仁寿1)文徳(もんとく)天皇は堂宇を落成して空海の弟子真雅(しんが)を開山とした。文治(ぶんじ)年間(1185~90)兵火により炎焼し、1352年(正平7・文和1)再建された。歴代の法皇自らが当寺で追善作福(ついぜんさふく)したが、のち衰退廃絶した。瓦(かわら)町の善福寺にある礎石や庭石はその遺跡といわれる。現在の嘉祥寺は1662年(寛文2)空心(契冲(けいちゅう))が安楽行院の旧跡に再興したものという。

[大鹿実秋]

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「嘉祥寺」の意味・わかりやすい解説

嘉祥寺[日本]
かじょうじ[にほん]

京都市伏見区深草町に存在した寺。嘉祥3 (850) 年真雅が仁明天皇崩御後,清涼殿を移して開創した寺で,貞観4 (862) 年にはこの寺の西院を改めて貞観寺とし,そののち仁和寺の別院となったが,荒廃して滅んだ。

嘉祥寺[中国]
かじょうじ[ちゅうごく]

中国浙江省紹興市会稽にある,東晋時代 (370頃) に郡主が竺道壱のために開創した寺院。隋時代に吉蔵がこの寺院に8年間住んで講義をしたので,この寺の名前をとって吉蔵は嘉祥大師と呼ばれるようになった。

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