平安京内裏の主要殿舎の一つ。〈せいろうでん〉とも読み,清冷殿,西涼殿,路寝(ろしん),中殿(ちゆうでん),本殿ともいう。天皇の日常の御座所があり,四方拝,小朝拝,叙位,除目(じもく)等の公事を行ったところ。平安京内裏では,はじめ諸殿の中央にあった仁寿殿(じじゆうでん)がその役を果たしていたが,村上天皇の代,960年(天徳4)の火災以後,清涼殿がこれに代わったと伝えられている。天正度の造営(1590)のときに常御殿(つねごてん)が造られ,これが天皇の日常の御座所となったため,清涼殿は儀式にのみ使用されることとなった。現在京都御所にあるのは安政度の造営(1855)であるが,古式によって建てられている。
位置は紫宸殿の北西にあり,東に仁寿殿,南に校書殿(きようしよでん)がある。東面して9間4面,檜皮葺き(ひわだぶき),入母屋造である。東に孫廂(まごびさし)をもち,東,西,北の外縁に簣の子(すのこ)をめぐらす。〈身舎(もや)〉(母屋)は建物の南寄りに南北5間,東西2間で,天皇の日中の御座所(昼御座(ひのおまし))である。その北寄り第1間は通路,第2間を御帳間(みちようのま)といい,天皇の休息用の居所である御帳台がある。第3間に大床子(だいしようじ)3脚を並べ,第4,5間の西に厨子を置き,琵琶や笛等の楽器や書籍を納めている。身舎の東は〈東廂〉で,北寄り第1間は清涼殿と書いた額が掲げてあるので額間(がくのま)といい,第2間は御帳台の前面に当たり,天皇出座のための平敷(ひらしき)の御座(おまし)が設けられる。第3間は大床子の前面のため大床子間といわれ,第4,5間は東廂の南の部分2間で〈石灰壇(いしばいのだん)〉である。土を板敷と同じ高さにまで盛り上げ,表面を石灰で塗り固め,南東の隅に約60cmの丸い穴(塵壺(ちりつぼ)または地炉(じろ)という)をあける。西側に四季の屛風を立て,中央に円座を敷き,毎朝天皇がここで伊勢神宮や内侍所(ないしどころ)を遥拝する。昼御座の北2間四方が〈夜御殿(よるのおとど)〉で,身舎と妻戸で通じている。天皇の寝室で,御帳が置かれ,東枕である。その東,額間の北を〈二間〉といい,南北2間,東西1間で,観音画像を懸けて夜居(よい)の護持僧が祗候した。夜御殿,二間の北に,〈弘徽殿(こきでん)の上御局(うえのみつぼね)〉〈萩戸(はぎのと)〉〈藤壺の上御局〉の3室が東から西に並んでいる。萩戸は天皇の居室で,二つの上御局は皇后や女御等が祗候した室である。東廂の東が孫廂で,南北9間,東西1間の板葺きで,床は身舎より一段低くなっている。二間と弘徽殿上御局の境に昆明池障子(こんめいちのしようじ)が置かれ,北の突当りは荒海障子で仕切られている。〈北廂〉は東西3間,南北1間,北廊を経て滝口陣,承香殿や弘徽殿に通じる。西廂は南北9間,東西1間,北寄り第1間は〈御湯殿上〉で,簣の子を隔て西にある御湯殿で御湯を天皇に奉仕する女房の詰所である。第2間は〈御手水間(おちようずのま)〉,ついで〈朝餉間(あさがれいのま)〉と続く。天皇が手水をつかい,食事をする室である。その南は〈台盤所〉で,天皇の食事を調進する女房の詰所である。殿上人等が詰める殿上の間に相当し,御倚子(ごいし),台盤,当番の女房の名を記した女房簡(ふだ)等が置かれている。南の端が〈鬼の間〉で,南側の壁に白沢王(はくたくおう)が鬼を切る画が描かれている。大床子の御膳(おもの)に使われる食器が厨子に納められている。南東の隅,身舎との境の柱を中心に〈櫛形の小窓〉があり,南に接する殿上間を鬼の間と身舎からうかがうことができる。身舎と西廂の間は障子で仕切られ,南廂との間は白壁である。南廂は〈殿上の間〉で,公卿および昇殿を許されたいわゆる殿上人が祗候するところである。その東に〈落板敷(おちいたじき)〉があり,年中行事障子が殿上の間の妻戸の前に置かれている。落板敷から孫廂に出る小階の最下段が〈鳴板(なるいた)〉(見参板(けざんのいた))で,踏めば鳴るようになっている。殿上の間の縁,小板敷の南に小庭がある。その南に〈下侍(しもさぶらい)〉があり,殿上人に次ぐ身分の者が祗候した。落板敷から東へ〈長橋〉があり,紫宸殿に通じている。東廂と孫廂の間に御殿を囲う蔀(しとみ)がつけられており,その外側の簣の子の縁に高欄がある。階段は東側2ヵ所,北側に1ヵ所,ともに3級の木階である。東庭に御溝水(みかわみず)が流れ,南寄りに〈漢竹(かわたけ)の台(垣)〉,北寄り離れた位置に仁寿殿の〈呉竹の台〉がある。
執筆者:平林 盛得
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「せいろうでん」とも読む。平安宮内裏(だいり)の殿舎の名。中殿(ちゅうでん)、本殿(ほんでん)ともいう。天皇の日常の居所。平安初期には仁寿(じじゅう)殿にあった居所が、やがて清涼殿に移り、天皇がここで崩御すると建て替えられることもあった。律令(りつりょう)政治の変質によって、天皇の私生活の場である清涼殿が政治の中心となっていき、叙位・除目(じもく)などの重要な公事(くじ)も行われた。戦国末期になって、天皇の居所として常御殿という殿舎が建てられ、以後清涼殿では儀式を行うだけとなった。1855年(安政2)平安内裏を復原、造営された清涼殿が、現在も京都御所に残っている。
後涼(こうりょう)殿の東、仁寿殿の西に位置し、檜皮葺(ひわだぶき)、入母屋(いりもや)造で南北9間、東西2間の母屋(もや)の四面に庇(ひさし)、東に孫庇がある東向きの建物。母屋は南側から、居間にあたる昼御座(ひのおまし)、次が寝室となる夜御殿(よるのおとど)、その北は藤壺上御局(ふじつぼのうえのみつぼね)、萩(はぎ)の戸(と)の2室に分かれる。東庇は南側から石灰壇(いしばいのだん)、次に平敷の昼御座が置かれ、二間(ふたま)、弘徽殿上御局(こきでんのうえのみつぼね)と続く。公卿(くぎょう)などの座となる東孫庇(弘庇(ひろびさし))は、北端に、布張りの衝立(ついたて)、荒海障子(あらうみのそうじ)が置かれ、その表には荒海のほとりに手長・足長という怪物のいる図が描かれており、二間の前には、同じく布張りの昆明池障子(こんめいちのそうじ)が置かれ、表に中国の昆明池の図が描かれている。南端に、踏むと音のする鳴板(なるいた)があって、年中行事障子を経て小板敷(こいたじき)に至る。東簀子(すのこ)には東庭へ下りる階段が2か所あり、簀子に沿って御溝水(みかわみず)が流れ、その前に河竹(かわたけ)・呉竹(くれたけ)が植えられた。西庇は北側から御湯殿(おゆどの)、御手水間(おちょうずのま)、朝餉間(あさがれいのま)、台盤所(だいばんどころ)、鬼間(おにのま)と、天皇の洗面、食事やその準備のための部屋が並んで、朝餉壺(あさがれいのつぼ)、台盤所壺という西庭に面する。南庇は公卿、殿上人(てんじょうびと)たちが詰める殿上の間になっていた。
[吉田早苗]
「せいろうでん・せいようでん」とも。清冷殿・西涼殿とも。平安宮内裏(だいり)十七殿の一つ。紫宸(ししん)殿の西北にある。宇多朝以後,仁寿(じじゅう)殿にかわり天皇の常御殿となる。これらから内殿・本殿・御殿・路寝・中殿ともよばれる。東を正面とし,母屋(もや),四方の庇(ひさし),東側の孫庇からなる。母屋南部の南北5間,東西2間と東庇を昼御座(ひのおまし)といい,天皇の日中の御座所であった。その北第2の間に御帳台(みちょうだい),前方の東庇に平敷の御座がおかれ,天皇はここで政務を聞いた。叙位・除目(じもく)は東庇に天皇,東孫庇に関白以下公卿が参集して行われた。南庇の殿上(てんじょう)の間には公卿・殿上人が伺候し,殿上定が行われた。西庇には御湯殿上(おゆどののうえ)・御手水間(おちょうずのま)・朝餉間(あさがれいのま)・台盤所(だいばんどころ)・鬼間(おにのま)があり,昼御座の北には夜御殿(よるのおとど),弘徽殿(こきでん)の上御局(うえのみつぼね)などがある。このように清涼殿は,北・西部が天皇の私的生活の場であるのに対して,東・南部は政務,儀式や宴会といった公的な場としての性格が強い。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
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…天皇の日常の御座所があり,四方拝,小朝拝,叙位,除目(じもく)等の公事を行ったところ。平安京内裏では,はじめ諸殿の中央にあった仁寿殿(じじゆうでん)がその役を果たしていたが,村上天皇の代,960年(天徳4)の火災以後,清涼殿がこれに代わったと伝えられている。天正度の造営(1590)のときに常御殿(つねごてん)が造られ,これが天皇の日常の御座所となったため,清涼殿は儀式にのみ使用されることとなった。…
…なお平安宮では,朱雀門以下の宮城十二門に囲まれた,内裏と朝堂院および諸官衙等を包括して宮城と称したが,唐の長安城では,官衙や宗廟を配置した皇城が,宮城の南に完全に区別して位置した。
[平安内裏と里内裏]
平安宮の内裏は,紫宸殿(ししんでん)を正殿とし,その北に接する仁寿殿(じじゆうでん)を平常の居所とし,その北に后妃・皇子女等の居住する後宮諸殿舎を配置したが,紫宸殿における朝儀・公事が多くなるに伴い,9世紀末から10世紀初めの寛平・延喜ころから紫宸殿の北西に位置する清涼殿(せいりようでん)が天皇の常居となるようになった。この平安内裏は,960年(天徳4)村上天皇のとき初めて焼亡し,以後焼失と再建を繰り返して鎌倉中期に及んだが,1227年(安貞1)後堀河天皇のとき焼亡廃絶した。…
※「清涼殿」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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