日本古代に,宮城の守衛にあたった官司の一つ。7世紀後半の天武朝にその萌芽が見られ,701年(大宝1)制定の大宝令で左右兵衛府が成立,衛門府,左右衛士府とともに五衛府を形成した。率,翼,大尉,少尉,大志,少志各1人などの職員があり,兵衛各400人が左右の兵衛府に所属した。長官,次官である率,翼の称は,養老令では他の衛府と同じ督,佐の称に改められた。府の職務は,兵衛を統率して宮城内の閤門(内門)の守衛や出入者の監視,宮内の巡検,行幸時の天皇の護衛などにあたることで,五衛府のなかで,もっとも天皇の居所に近い重要な区域の警衛を担当した。8世紀の中ごろから中衛府,近衛府等の新しい天皇近侍の武官が生まれると,兵衛府はしだいにその職務を奪われたが,平安時代初めの衛府制度の改革後も,左右近衛府,左右衛門府と並んで六衛府の一画として存続した。
執筆者:笹山 晴生
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五衛府の一つ。和名「つわもののとねりのつかさ」。左右兵衛府に分かれる。構成は、大宝令(たいほうりょう)下では、それぞれ、率(かみ)1、翼(すけ)1、大直(だいじょう)1、少直1、大志(だいさかん)1、少志1、医師1、兵衛数百。養老(ようろう)令では官名は他の3府と同じく督(かみ)、佐(すけ)、尉(じょう)、志(さかん)と記し、また兵衛数は各400と定められた。以後、808年(大同3)に兵衛は各300に削減、811年(弘仁2)にふたたび各400になった。728年(神亀5)に中衛府が設置されて、その職掌が重複していたのではないかと考えられ、急速に形骸(けいがい)化したとする見方もあるが、天平(てんぴょう)期(729~749)の平城宮出土の木簡(もっかん)に、宮門守衛の兵衛名が多量にみえることから、この二つの府のあり方はそれぞれ異なるものであったと考えられる。兵衛府の性格については、令制以前の親衛軍の遺制を強く継承しながら、農民兵士による衛士(えじ)制の成立により儀仗(ぎじょう)兵化したものではないかと考えられている。
[野田嶺志]
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大宝・養老令に規定された衛府。左兵衛府・右兵衛府がある。養老令によれば,それぞれ督(かみ)(大宝令では率)・佐(すけ)(大宝令では翼)・大尉(たいい)・少尉(しょうい)・大志(だいし)・少志(しょうし)の四等官がおり,その下に兵衛400人が所属した。兵衛は郡司子弟などからとられ,令制五衛府のなかでは最も天皇の近辺を警衛したが,しだいにその地位は令外新設の中衛府・近衛府などに奪われた。758~764年(天平宝字2~8)の藤原仲麻呂による官号改称では左右の虎賁衛(こほんえい)といった。他の衛府のように統廃合はうけず,後世まで存続した。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
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出典 旺文社日本史事典 三訂版旺文社日本史事典 三訂版について 情報
…中国では魏・晋のころから発達し,唐では天子十六衛,東宮十率府があった。日本では大化改新後,中国にならって制度が整備され,旧来の舎人(とねり)の伝統をうけつぐ兵衛,衛士をひきいる左右衛士府,衛士と旧来の靫負(ゆげい)の伝統をうけつぐ門部とからなる衛門府などがあいついで生まれ,701年(大宝1)までに衛門府,左右衛士府,左右兵衛府からなる令制の五衛府が成立した。五衛府の兵力の主体は農民出身の衛士であるが,宮内の宿直,閤門(内門)の守衛など重要な職務は,地方豪族,下級官人層出身の兵衛が担当した。…
※「兵衛府」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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