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国中公麻呂 くになかの きみまろ

デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

国中公麻呂 くになかの-きみまろ

?-774 奈良時代の官吏,仏師。
百済(くだら)(朝鮮)から亡命した国骨富(こく-こつふ)の孫。はじめ国(くにの)君麻呂といい,居住地の大和国中村(奈良県大和高田市)にちなんで改姓。金光明(こんこうみょう)寺(のちの東大寺)造仏所の造仏長官となり,盧舎那(るしゃな)大仏の鋳造に成功して昇進,造東大寺司次官をつとめた。宝亀(ほうき)5年10月3日死去。名は公万呂ともかく。

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百科事典マイペディアの解説

国中公麻呂【くになかのきみまろ】

奈良時代の仏師百済(くだら)からの渡来人子孫で,大和(やまと)国中村に住み,国中連(むらじ)の姓を賜った。初め東大寺の前身である金光明(こんこうみょう)寺の造仏長官となり,現在の東大寺法華堂の不空羂索観音像をはじめとする乾漆諸像の制作を監督したといわれる。
→関連項目奈良大仏

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朝日日本歴史人物事典の解説

国中公麻呂

没年:宝亀5.10.3(774.11.11)
生年:生年不詳
奈良時代の技術系官人で大仏師。国君麻呂,国中連公万呂とも書く。『続日本紀』宝亀5(774)年10月3日条の卒伝には,祖父の国骨富は百済人で徳率の地位にあり,天智2(663)年に帰化したと記される。天平年中,東大寺大仏の造営開始とともに記録にその名が現れ,天平18(746)年11月1日付の「金光明寺造物所告朔解」に,「造仏長官外従五位下国」とあり,金光明寺のちの東大寺の造仏長官として,大仏の造立を指揮したことが知られる。また大仏ばかりでなく,天平19年1月には不空羂索観音像(東大寺三月堂に現存の像とする説もあるが,厳密にはどこの像か不明。皇后宮ないし興福寺像の可能性もある)のために鉄20挺を請うなど,他の造仏にもかかわり,同年11月には造仏長官兼遠江員外介で外従五位下,翌20年2月に従五位下,天平勝宝1(749)年4月の聖武天皇の大仏殿行幸に際しては従五位上に叙せられている。その後しばらく記録が途絶えるが,天平宝字5(761)年6月の光明皇太后周忌斎会には爵一級を賜り,同10月には「造東大寺司次官」に任じられた。以後,造東大寺司の次官の地位にあって,香山薬師寺や石山寺造営に関与し,天平神護3(767)年2月,東大寺主要伽藍の完成を記念する称徳天皇の東大寺行幸の際には,従四位下に叙せられた。以後間もなく次官の地位を辞し,神護景雲2(768)年11月には名誉職の但馬員外介に任じられた。『大仏殿碑文』などにみえる「大仏師」としての作家的性格を重視するものと,造東大寺次官としての官人的性格を重視するものとの両説があるが,仏師として,大仏造立事業の全般を統括するディレクター的役割を果たしたと考えられる。<参考文献>小林剛「国中連公麻呂」(『日本彫刻作家研究』),田中嗣人「造東大寺司造仏所と国中連公麻呂」(『日本古代仏師の研究』)

(浅井和春)

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世界大百科事典 第2版の解説

くになかのきみまろ【国中公麻呂】

?‐774(宝亀5)
奈良時代の仏師。663年(天智2)に日本に帰化した百済の技術者国骨富(くにのこつふ)の孫。大和国葛下(かつらきしも)郡国中村に住み,はじめ国君麻呂といった。745年(天平17)ころ,東大寺の前身に当たる大和金光明寺の造仏長官として,現在の東大寺法華堂諸像を造ったといわれる。また,749年(天平勝宝1)ころまでに東大寺大仏の鋳造を鋳師高市大国(たけちのおおくに)とともに手がけて,成功させている。これらの功により761年(天平宝字5)には造東大寺司次官に任ぜられた。

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大辞林 第三版の解説

くになかのきみまろ【国中公麻呂】

?~774) 奈良時代の仏師。百済くだらからの渡来人の子孫。東大寺大仏造立に貢献。国中連むらじ姓を賜る。造東大寺司次官。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

国中公麻呂
くになかのきみまろ
(?―774)

奈良時代の仏師。663年百済(くだら)滅亡の際亡命した徳率国骨富(とくそつこくこっぷ)の孫。初め大和(やまと)の金光明寺(こんこうみょうじ)造営に従って745年(天平17)外従(げじゅ)五位下(げ)、造仏長官となった。ついで東大寺盧舎那(るしゃな)大仏の鋳造に大仏師として活躍、巧思をめぐらして成功し、従五位上に叙せられた。758年(天平宝字2)居地大和国葛下郡(かずらきのしものこおり)国中村にちなみ、国姓を改めて国中連(むらじ)姓を賜った。同年造東大寺次官に就任。767年称徳(しょうとく)女帝東大寺行幸の日、従四位下に昇叙したが、まもなく退官し、774年(宝亀5)散位(さんい)従四位下をもって卒(しゅっ)した。[黛 弘道]

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世界大百科事典内の国中公麻呂の言及

【仏師】より

…このころから仏師の工房である仏所が定着するようになるが,その長上たる人物を大仏師といい,その下位にあって大仏師の手足となって働く者を小仏師と呼ぶようになる。大仏師の語はすでに奈良時代に東大寺大仏の造立に当たった国中(連)公麻呂(?‐774)の肩書として用いられているが,これは平安以後の大仏師とは意味を異にし,工人の棟梁に対する美称だと考えられる。これに対し,実際の仕事に当たる工人は奈良時代では仏工という名で呼ばれる。…

※「国中公麻呂」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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