天平勝宝元年(七四九)七月一三日に諸寺墾田の地限を定めた際、新薬師寺は五〇〇町とされ、同三年一〇月二三日には聖武天皇の病気に際して新薬師寺で四九人の僧によって七日間にわたる続命の法が修められた。宝亀二年(七七一)八月二六日、僧綱印および新薬師寺印が鋳されたが、同一一年一月一四日、大雷があって西塔が焼失している(続日本紀)。寺の規模は天平勝宝八年の東大寺山堺四至図(正倉院蔵)に現本堂と同じような「新薬師寺堂」が描かれているだけであるが、「東大寺要録」にみえる宝亀一一年の焼失の記事には金堂・講堂も焼けたとあり、東西両塔を備え、七堂伽藍を完備した大寺であったとも考えられる。天平宝字六年(七六二)閏一二月一七日、東大寺料封一〇〇戸を割いて新薬師寺霊塔・仏殿・僧坊などの修理料にあてる勅があり、延暦一二年(七九三)三月一一日施行された(東大寺要録)。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
奈良市高畑町にある華厳宗の別格本山。本尊薬師如来座像。南都十五大寺の一つ。新薬寺,香山薬師寺,香薬寺とも称せられた。《東大寺要録》《延暦僧録》によると,747年(天平19)3月に光明皇后が聖武天皇の病気全快を祈って七仏薬師像と九間仏殿を創建したのに始まり,平城右京の薬師寺に対して新建の薬師寺という意味で新薬師寺と称せられた。《正倉院文書》では748年7月に寺名が初見し,749年(天平勝宝1)7月に諸大寺の墾田地限を定めたとき,法隆寺,弘福寺,四天王寺などとともに500町と認められた。751年10月には聖武上皇の病気回復を祈って,49人の賢僧が当寺で〈続命の法〉を祈修した。771年(宝亀2)8月には官大寺に寺印が下付されたが,当寺にも寺印を賜った。このころすでに大鎮,小鎮のほかに三綱(さんごう)が置かれて寺の運営が行われ,東西両塔,鐘楼,僧坊なども建立され,772年正月に総供養が行われた。《東大寺山堺四至図》には南面する大きな堂が描かれ,〈新薬師寺堂〉と記し,南面には寺薗が設けられていた。780年1月に落雷で西塔が焼失した。また762年(天平宝字6)12月に東大寺の寺封5000戸のうちより100戸を割封して当寺修理料に充てたが,793年(延暦12)3月にいたってさらに延長され,復興修理料に充てられた。清和上皇は879年(元慶3)に大和国名山霊所を巡礼したさい,当寺にも参詣した。962年(応和2)8月の台風で七仏薬師堂が転倒し,寺勢は漸次衰微するにいたった。鎌倉時代後期には興福寺末となり,南都七郷のうちに新薬師寺郷が含まれ,室町時代にはしばしば戦場となり衰退の度を加えた。1602年(慶長7)8月徳川家康より100石の朱印を賜り,99年(元禄12)に護持院隆光の斡旋で桂昌院宗子の寄捨により,本尊,十二神将像などの修理が行われた。現今の本堂は,もとの何堂に当たる天平遺構かは明らかでない。現在の奈良市の通称である本薬師町は七仏薬師堂が,旧塔之内町は西塔が存在したところと考えられ,奈良時代の古瓦が出土する。
執筆者:堀池 春峰
本堂(国宝)は基壇上に建ち,入母屋造本瓦葺きで,桁行7間,梁間5間の規模をもつ。桁行中央間(16尺)を他の柱間(10尺)より広くとり,母屋梁間を3間として,内陣中央に土壇を漆喰(しつくい)で固めた大きな円形須弥壇をつくる。壇上中央に本尊薬師如来座像(国宝),両脇に十一面観音像2軀(平安前期・後期,重要文化財),そしてそのまわりに十二神将立像(奈良後期,塑像,国宝)をまつる。本堂の造像尺(29.83cm)や虹梁の形式,桁や垂木の円形断面,柱天の丸みの大きさなどに天平時代の手法がみられる。組物,扉口の手法や緩い軒勾配などからも,天平時代末ころの建立と考えられ,簡素な古代仏堂の好例である。薬師如来座像は像高191.5cm,大衣を偏袒右肩(へんたんうけん)にまとい,左手は膝上に掌を仰いで薬壺をとり,右手は前方に掌を開いて立て,左足を外に結跏趺坐(けつかふざ)する。光背は二重円相光,台座は宣字形裳懸座(もかけざ)。材質は榧(かや)を用い,頭と胴体は一体で内刳りを施し,両手・両脚部をはぎ合わせた寄木造である。像内納入品に法華経,手錫杖,法螺貝などがある。十二神将像は波夷羅大将(はいらたいしよう)とされる1軀をのぞいて天平期の塑像で,目にガラス玉をはめ,身体全体に彩色が施されていた。なおこのほかに,現在,奈良国立博物館に寄託されている准胝(じゆんてい)観音像(970,重要文化財)がある。
執筆者:宮本 長二郎
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奈良市高畑(たかばたけ)町にある華厳(けごん)宗の寺。日輪山(にちりんさん)と号し、香(こう)薬師寺、香薬寺、香山(こうぜん)薬師ともいう。本尊は薬師如来(にょらい)。寺伝によると、もとは聖徳太子の創建で、香薬師仏を本尊とする香薬師寺といった。『東大寺要録』によれば、奈良時代、聖武(しょうむ)天皇の眼病平癒を祈願して光明(こうみょう)皇后が仏堂を建立して丈六薬師如来像を安置し、その胎内に本尊香薬師仏および仏舎利5粒、宸筆(しんぴつ)『薬師本願経』『法華経(ほけきょう)』、皇后御筆の『金剛般若経(こんごうはんにゃきょう)』と『法華経』各1部を収めたのに始まり、また東大寺別院となって、寺号も日輪山新薬師寺と改めたという。一説には光明皇后の眼病平癒を祈って聖武天皇が発願した寺であるともいう。749年(天平勝宝1)には墾田(こんでん)500町が施入され、4丁四方に七堂伽藍(がらん)の結構を誇る住僧1000人の大寺となった。東大寺とともに南都十大寺の一つに数えられた。780年(宝亀11)西塔に落雷があって現本堂(国宝)を残し焼失して衰亡したが、鎌倉時代には、明恵上人(みょうえしょうにん)が住して東門、南門、地蔵堂、鐘楼(以上、国の重要文化財)などを再建し、解脱(げだつ)上人貞慶(じょうきょう)は多くの衆徒(しゅと)をこの寺に集めた。江戸時代、護持院隆光(りゅうこう)が徳川綱吉の母桂昌院(けいしょういん)の意向を受けて再建にあたり、幕府から寺領100石の寄進を受けた。
国宝建造物をはじめ奈良から江戸時代にかけての彫刻・絵画・工芸の貴重な宝物が多い。とくに、本尊の丈六薬師如来像、円形須弥壇(しゅみだん)上の十二神将立像は国宝で、有名である。ほかに十一面観音像、准胝(じゅんてい)観音像、絹本着色仏涅槃(ぶつねはん)図などが国の重要文化財に指定されている。また、1943年(昭和18)盗難にあって現在所在不明の銅造香薬師仏(国の重要文化財)は、白鳳(はくほう)時代の逸品であった。境内には会津八一(あいづやいち)の歌碑がある。
[里道徳雄]
『『古寺巡礼 奈良4 新薬師寺』(1979・淡交社)』
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奈良市高畑町にある華厳宗の寺。「東大寺要録」によれば,747年(天平19)光明皇后が聖武天皇の病気平癒のため,9間の金堂をたて七仏薬師を安置したのが始まり。東大寺別院となり,香薬(こうやく)寺とも称したという。七堂伽藍をそなえ,十五大寺の一つに数えられたが,平安中期以降衰退して興福寺末となる。鎌倉時代には地蔵堂などがたてられ,新薬師寺郷が成立。奈良時代の本堂(国宝),平安初期の本尊薬師如来像(国宝)などがある。
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…これに対して伝日光・月光像は,その造形に法華堂本尊に通うものがあるが繊細な温雅さがあり,乾漆像が唐代全盛の気宇壮大な様式を伝えているのに対して,伝日光・月光像はこれらの様式を消化したこの時代の和様像となす向きもある。 また天平年間の造立とみなされるものに,新薬師寺の十二神将像がある。塑像の白土下地に彩色および漆箔仕上げが施されている。…
※「新薬師寺」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
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