日本大百科全書(ニッポニカ) 「陳炯明」の意味・わかりやすい解説
陳炯明
ちんけいめい / チェントンミン
(1878―1933)
中華民国の軍閥。字(あざな)は競存(きょうぞん)。広東(カントン)省海豊県の人。広東師範学校、広東法政学堂に学んだ。清(しん)末に広東諮議局(しぎきょく)議員、1910年に黄興らと広州の総督衙門(がもん)を襲撃、失敗して香港(ホンコン)に亡命した。辛亥(しんがい)革命に際し胡漢民(こかんみん)らと恵州に挙兵し、広州を攻略。胡のもとで広東副都督となった。第二革命失敗後、北洋軍閥系の龍済光(りゅうせいこう)に追われ亡命。第三革命に際し、雲南、広西の討袁(えん)(袁世凱(せいがい))軍に協力し、広東を回復した。1920年「広東人の広東」のスローガンを掲げて広西派を追い、広東省長に任命され、孫文(そんぶん)と第二次広東軍政府をつくった。しかし、呉佩孚(ごはいふ)と結ぶなど軍閥色を強めたため、1922年孫文により省長の職を解かれた。同年6月クーデターを起こして広州を奪回し、翌1923年1月雲南・広西軍、孫文直系軍の攻撃を受けて恵州に追われ、イギリスの後援を得て孫文の広東政府と対立したが、1925年広東政府の二度の東征に敗北し、政治生命を失った。
[石島紀之]