外山村
とびむら
[現在地名]桜井市大字外山
鳥見山北麓の集落。「日本書紀」神武天皇即位前紀戊午年一二月四日条に「皇師遂に長髄彦を撃つ。連に戦ひて取勝つこと能はず。時に忽然にして天陰けて雨氷ふる。乃ち金色の霊しき鵄有りて、飛び来りて皇弓の弭に止れり。其の鵄光り曄
きて、状流電の如し。是に由りて、長髄彦が軍卒、皆迷ひ眩えて、復力め戦はず。長髄は是邑の本の号なり。因りて亦以て人の名とす。皇軍の、鵄の瑞を得るに及りて、時人仍りて鵄邑と号く。今鳥見と云ふは、是訛れるなり」とみえる鵄邑の伝承地の一で、鳥見山も神武東征神話伝承地。また「万葉集」巻四に「大伴坂上郎女、跡見庄より、宅に留まれる女子の大嬢に賜ふ歌一首并に短歌」、また巻八に、
<資料は省略されています>
とみえる跡見庄は大伴氏の領地と考えられ、当地に比定される。なお貝原益軒は「和州巡覧記」で「昔の名長須根村是長髄彦の住し所と云へり。
外山村
とやまむら
[現在地名]赤泊村外山
現赤泊村北部に位置する。標高六三六メートルの経塚山(現畑野町)南麓の山村。南は徳和村、南西は上川茂村にそれぞれ山続きで接し、経塚山を隔てて北東は猿八村(現畑野町)、北西は竹田村(現真野町)に接する。徳和村から当村を経て経塚越で吉岡村(現真野町)に至る旧道は、古代三川駅と雑太駅を結んだ北陸道と推定されている。享保二〇年(一七三五)の覚書(佐々木甚太郎氏蔵)によれば、外山村の成立は慶安四年(一六五一)で、もと竹田・吉岡・大川・阿仏坊・国分寺・名古屋・新町・田町・長石・四日町・金丸・金丸本郷(現真野町)、三宮・安国寺・馬場・北(現畑野町)の通称「里十六ケ村」の入会山で、三宮村が主力となって立てた新村である。
外山村
そとやまむら
[現在地名]額田町外山
村域内を南北に貫く大沼道より、やや東側に集落が立地。東は保久村、西は北須山村(現岡崎市)、南は一色村、北は蕪木村(現東加茂郡下山村)と各々山で接する。中世、菅生庄に属したという。また享和三年(一八〇三)浄宮寺御用郡村仮名付帳(上宮寺蔵文書)は隣村の一色村と田代村を下山庄に入れているので当村も下山庄に属したとも考えられる。文和四年(一三五五)の彦部文書に彦部松法師丸の地頭職のことがみえ、
<資料は省略されています>
とある。彦部一族は室町幕府奉公衆として康正二年(一四五六)の「造内裏段銭并国役引付」に一門四人の名がみえる。
外山村
とやまむら
[現在地名]砥部町外山
古くから砥石の産地で、砥石山とよばれたのが外山になったという。現砥部町の西部山地に位置し、西は現伊予市に連なる。北から西へ北川毛村・大角蔵村、東は五本松村、南は両沢村(現伊予市)に接する。寛永一二年(一六三五)に松山藩領から大洲藩領となったいわゆる「御替地」に属し、江戸時代を通じ大洲藩領で、浮穴郡砥部郷一九村の一である。慶安元年伊予国知行高郷村数帳(一六四八)の浮穴郡の項に「外山村 小松林少有、芝山有」、高七〇石八斗七升三合、うち田五七石一斗四升三合、畠一三石七斗三升と記す。
伊予砥については、天平宝字四年(七六〇)六月二五日の正倉院文書に観世音菩薩像造立の料として「伊予砥三顆」がみえ、また「延喜式」(民部省)にも「砥一百八十顆」貢進の記事がある。
外山村
とやまむら
[現在地名]上野市外山
河合村(現阿山郡阿山町)の西南。河合川を合した柘植川が南を流れる。北部は木津川断層崖の東端で、山麓寄りに外山古墳群があり、勘定塚古墳(七世紀)は柘植川対岸の御墓山古墳(五世紀)とともに上野盆地に入る狭隘部を南北に扼する形で位置する大古墳である。この間を奈良時代の東海道が通り、当村の東端で分れて円徳院村・河合村(現阿山町)を経て近江へ出る道も古くから重要であった。
明暦四年(一六五八)古検を改め、元禄四年(一六九一)再び改めている。
外山村
とやまむら
[現在地名]日光市萩垣面
外山南麓、稲荷川東岸の段丘上にある。南は大谷川を隔て鉢石町、稲荷川対岸は日光山内。はじめは「皆成川村」の一部で萩垣町とも称したともいわれる。慶安郷帳によれば皆成川村は日光領で、畑高六二石余。なお輪王寺本慶安郷帳にはいなり川村とある。寛文二年(一六六二)稲荷川洪水により皆成川村の大部分が流失。村民は大谷川南岸へ移住して稲荷町を形成し、このとき残された畑地が当村となったとされる。元禄郷帳には「古、皆成川村」と注記される稲荷川村三九石余がみえる。元禄一四年(一七〇一)の日光領目録では外山分とみえ、三九石余。
外山村
そとやまむら
[現在地名]二戸市米沢
米沢村の西に位置。元禄十郡郷帳では当村は石切所村へ入るとある。元文四年(一七三九)の福岡通絵図(盛岡市中央公民館蔵)、「邦内郷村志」ともに蔵入高四五石余のみ。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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