米沢村(読み)よなざわむら

日本歴史地名大系 「米沢村」の解説

米沢村
よなざわむら

[現在地名]安達町米沢

吉倉よしくら村の東に位置し、南は渋川しぶかわ村、北はさかい川を隔てて信夫しのぶ鼓岡つつみがおか(現福島市)。天正一四年(一五八六)八月二四日の二ほん松をん所の日記(伊達家文書)によると、「ゆさの源さエ門」に「よな沢の村一宇」が宛行われている。文禄三年(一五九四)の蒲生領高目録に米沢とみえ、高三七三石余。延享四年(一七四七)の二本松領石高戸籍録(二本松市史)では本田高三七石余・新田高一二三石余、家数六二・人数二六八、馬一七。


米沢村
よねざわむら

[現在地名]佐伯町米沢

吉井川の右岸、大王たいおう山南麓に集落がある。北は津瀬つぜ村、南は市場いちば村。もとはかしら村と称したが、文化七年(一八一〇)に米沢村と改称(撮要録)。岡山藩家老土倉市正の陣屋があり、町場を形成していた。慶長一〇年(一六〇五)備前国高物成帳(備陽記)には佐井木さいき庄頭村とある。寛永備前国絵図に頭村とみえ、高三九一石余。「備陽記」に「市場ト町続キナリ」とあり、田畠二六町一反余、家数一〇四・人数六五九、池五、高瀬船七、岡山城下京橋きようばしまで道程七里、船路は倉安くらやす川通り京橋まで一〇里半。


米沢村
よねざわむら

[現在地名]新鶴村米田よねた

檜目ひのめ村の西、会津盆地西部山麓縁の中央ほど近くにある。村の東を赤沢あかさわ川が流れるが、灌漑用水が不十分であったため、慶安三年(一六五〇)西に大堤を築いた(新鶴村誌)。西部は畑、その他は水田で稲作に恵まれる。村の西に米沢という山沢があるための村名という(高田組郷村万改帳)。文禄三年(一五九四)の蒲生領高目録では高三九六石余で、うち一六六石余は「川ヲシ荒」と注記される。


米沢村
よなざわむら

[現在地名]寒河江市米沢・高松たかまつ

清助せいすけ新田村の東、寒河江川南岸に位置し、米沢と西覚寺さいがくじの二集落からなる。米沢は八鍬やくわ村に近い河岸段丘上の集落で、西覚寺はその南に離れて所在する集落である。西覚寺に寺があった形跡はなく、「才の口」からなまった地名と思われる。寒河江川沿いにさいくちの地名がある。文安二年(一四四五)一二月二〇日の寺司所領日記(阿部文書)に、知行地八鍬二五貫文のうちとして「次ニ米沢ニ上葉山田五百苅、本年貢一貫五百文之所、取役者五百文」とみえ、慈恩じおん寺領八鍬に所属していた。


米沢村
よねざわむら

[現在地名]太田市米沢・西新町にししんまち

牛沢うしざわ村の北西にあり、南境を石田いしだ川が南東流する。東は細谷ほそや村、西は下田島しもたじま村、南は岩松いわまつ(現新田郡尾島町)。建保三年(一二一五)三月二二日、幕府は岩松時兼を新田義兼後家の注文により「米沢郷」など一二ヵ郷の地頭職に補任している(「将軍家政所下文写」正木文書)。「吾妻鏡」寛元三年(一二四五)五月九日条によれば、金津資成は「米沢村名主職」を主張して、懸物押書を捧げて幕府に越訴したが、却下されている。応永一一年(一四〇四)四月七日の新田庄内惣領知行分注文写(正木文書)に「米沢村」、一五世紀半ばのものと思われる岩松持国知行分注文(同文書)には「米沢郷」とみえる。寛文郷帳では田方三〇二石余・畑方一六八石余で、大坂定番の安部信盛領・旗本富田領の二給。


米沢村
まいざわむら

[現在地名]二戸市米沢

馬淵まべち川を挟んで福岡ふくおか村・堀野ほりの村に対し、前沢まえさわ村とも称した。沢内さわうちに米沢館跡があり、エン館とも称される。同館跡の北方には佐々木数馬の居館といわれる佐々木館跡・稲荷館跡があるが、米沢館との関係は不明。「邦内郷村志」によれば、源義経追討の命を受け当地に入った佐々木三郎を佐々木氏の祖とする説がある。永正五年(一五〇八)の糠部郡九箇部他馬焼印図(古今要覧稿)の「二ノ部」に「あひかび(中略)本主佐々木庶子」とみえ、佐々木氏の管理下にあった牧が「二ノ部」にあったことが知られるが、「あひかび」がどの地をさすかは不明。


米沢村
よねざわむら

[現在地名]富山町吉沢よしざわ

吉井よしい村の南に位置し、房総往還が通る。地籍は同村と複雑に入り組んでいる。当地の字に大折おおおりがあり、古代の平群へぐり郡衙の所在地とする説がある。天正一八年(一五九〇)一〇月の書上控(田代家文書)に村名がみえる。慶長二年(一五九七)の安房国検地高目録および同一一年・一五年の里見家分限帳では吉井村と並記され、一括して高付されている。


米沢村
みなざわむら

[現在地名]天竜市米沢

わたしま村の東、天竜川中流域右岸に位置する。皆沢みなさわともいう。「遠江国風土記伝」には中村と渡ヶ島村に属するとあり、両村から分村したのであろうか。領主の変遷は横川よこかわ村と同じ。慶長一六年(一六一一)の阿多古領年貢取帳(中村家文書)に皆沢村とみえ、永高三貫二六五文。元和五年(一六一九)の阿多古村指出(同文書)に皆沢村とみえ、永高三貫二六五文、川成分八二三文を差引いた年貢を鐚銭と茶一〇〇斤・紬一端(ただし金納)で納めている。正保郷帳には米沢村とみえ、永高は同じ。延宝六年(一六七八)の阿多古領一八ヵ村年貢免定(中村家文書)によれば反別六町一反余、そのほとんどが畑地。


米沢村
よねざわむら

[現在地名]芸北町米沢

移原うつるばら村の南にあって、落合おちあい川が南流し、山野廻やまのまわり六ヵ村の中央部に位置する。村名は正徳二年(一七一二)の「所務役人頭庄屋郡邑受方記」にみえるが、元和五年(一六一九)の安芸国知行帳では山野廻村に含まれた。慶長六年(一六〇一)の検地高は六九・五五一石、その後新開高が加えられ、享保一四年(一七二九)の地詰では七五・〇四七石。広島藩領明知・給地入交じり。古地が宝暦一二年(一七六二)より定免五・二五、それ以前の上り詰五・九、下り詰二・三、高付新開地は同一〇年より定免五・二八、それ以前の上り詰五・四、下り詰〇・九二(国郡志下調書出帳)


米沢村
よねざわむら

[現在地名]広神村米沢

破間あぶるま川に注ぐ小流日付ひづけ川奥地にあたる。南は中家ちゆうか村、西は山田やまだ村、北は江口えぐち村。正保国絵図に村名がみえ、高一一二石余。天和三年郷帳では高九九石九斗余。正徳元年(一七一一)村明細帳(佐藤武度氏蔵)では田五町九反余・畑四町四反余。畑のうち切替畑一町三反余・青苧畑三反余。家数は本家五・地借二、男女とも二八、馬七。


米沢村
よねざわむら

[現在地名]水戸市米沢町

東茨城台地の中央部に位置し、陸前浜りくぜんはま街道に沿う村。北は狐沢きつねざわ村に接し、西をさかさ川が流れる。村域内に弥生時代の米沢町遺跡、古墳時代の円墳六基よりなる米沢町古墳群がある。「水府志料」に「此村正保、万治年間吉田村の地を開耕して、米沢新田と云。元禄七の年、改めて米沢村とす」とある。「新編常陸国誌」に「正保三年水帳ニ、茨城郡吉田郷ノ内米沢新田トアリ」とみえ、寛文三年(一六六三)開基帳(彰考館蔵)に「米沢新田」とあり、元禄郷帳に「米沢村」とみえる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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