多摩ニュータウン遺跡群(読み)たまにゆーたうんいせきぐん

日本歴史地名大系 「多摩ニュータウン遺跡群」の解説

多摩ニュータウン遺跡群
たまにゆーたうんいせきぐん

東京都の南西部、多摩川中流域と神奈川県との都県境をなすさかい川に画された、多摩丘陵の内側に建設中の多摩ニュータウン地域内にある遺跡群の総称で、およそ一千ヵ所からなる。多摩ニュータウンは、多摩市を中心に八王子市・町田市・稲城いなぎ市にまたがる東西一四キロ、南北二―四キロ、面積三〇〇〇ヘクタールという日本有数の規模をほこる住宅団地で、昭和三〇年代後半に計画され、同四〇年代に建設が開始された。建設に先立って丘陵内の分布調査を行ったところ、遺跡数がそれまで知られていた三八から二六八に急増し、多摩ニュータウン遺跡調査会を組織して対応することになった。しかし、調査精度の深化と新発見遺跡の増加もあり、昭和五五年(一九八〇)からは財団法人東京都埋蔵文化財センターに調査が引継がれた。用地内には北東に並走して多摩川に注ぐ三本の河川がある。乞田こつた川を間に北側に流域面積の大きい大栗おおぐり川、南側に三沢みさわ川が丘陵内の奥深く入り込み、両側は丘陵を葉脈状に開析して晩壮年の地形を呈する。遺跡の規模はその起伏のある地形に応じて概して小規模であり、河川流域を中心に丘陵斜面や尾根筋にまでくまなく分布しており、各時代の多岐にわたる土地利用が広く展開したことをうかがわせる。遺跡数を時代別にみると、旧石器時代が約一五〇ヵ所、縄文時代が約八〇〇ヵ所、弥生時代が約八〇ヵ所、古墳時代が約一五〇ヵ所、古代が約六〇〇ヵ所、中世が約二〇〇ヵ所である。分布密度では西側がきわめて濃密な反面、多摩市を中心に中央部が希薄である。本来は丘陵の一帯に遺跡がおしなべて高密度に分布したであろうが、建設優先のため昭和四〇年代に緻密な調査ができなかった事情に起因しよう。

〔旧石器時代〕

多くは後期旧石器時代の遺跡であるが、流域面積の広い大栗川流域に比べて乞田川流域では遺跡が少ない。

〔縄文時代〕

縄文時代になると、最も古い土器と石斧・槍先形尖頭器の組合せがNo.769遺跡(八王子市堀之内)から出土しており、やや資料が多くなる隆起線文土器の時期になると、No.426遺跡(同市大塚)から有舌尖頭器・有溝砥石・抉入削器などが出土している。早期に入ると関東地方では遺跡が急増し、住居跡が構築されて定住化が始まり、撚糸文系土器を使用するが、ニュータウン地域では縄文(J型)撚糸文(Y型)土器に加えて、縄文と撚糸文を併せて施文するJY型土器の三者を保有するという地域色がみられる。早期後葉には丘陵の至る所に獣などを捕獲する落し穴がうがたれ、さながら一帯が狩場のようでもある。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

改訂新版 世界大百科事典 「多摩ニュータウン遺跡群」の意味・わかりやすい解説

多摩ニュータウン遺跡群 (たまニュータウンいせきぐん)

東京西部の多摩ニュータウン事業用地内にある遺跡群の総称。計画区域は多摩川右岸,多摩丘陵北西部の多摩,八王子,稲城,町田の4市にまたがり,東西約14km,南北2~4km,面積約3000haの広大な地域を占める。1965年以来,分布調査,発掘調査が継続的に実施され,先土器時代から縄文,弥生,古墳,歴史時代の遺跡約850ヵ所が確認され,遺跡群の実体が明らかになりつつある。それらを概観すると,先土器時代については資料が断片的で詳細は不明であるが,縄文時代以降になると遺跡数の増減などから遺跡群の動きにいくつかの画期のあったことが認められている。すなわち,遺跡数は縄文早期から前期末にかけて増加し一つのピークをつくるが,中期になると半数以下に急減し,対照的に大規模な集落遺跡が出現する。しかし,後期初頭になるとこの大規模な集落遺跡は姿を消し,遺跡数も極端に少なくなる。この時期を境に遺跡はほぼ皆無に近い状態になり古墳時代前半まで続くが,古墳時代後半から奈良時代になると再び居住の場となり,平安時代には丘陵内のいたるところで集落跡が発見されるようになる。奈良時代以降の動きについては,多摩川の対岸に位置する国府との関連が考えられている。遺跡群は以上のような展開をみせながら,やがて街道沿いの中近世農村集落の形成へとつながっていく。
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