多治比県守(読み)たじひのあがたもり

改訂新版 世界大百科事典 「多治比県守」の意味・わかりやすい解説

多治比県守 (たじひのあがたもり)
生没年:668?-737(天智7?-天平9)

奈良時代の官僚。父は左大臣多治比嶋。705年(慶雲2)に従五位下となり,造宮卿を経て716年(霊亀2)遣唐押使に任ぜられ,翌717年(養老1)節刀を賜って出発し,718年に帰国した。719年藤原武智麻呂らとともに皇太子(後の聖武天皇)の側近となり,また按察使(あぜち)として東国経営にたずさわり,720年の蝦夷反乱のとき,持節征夷将軍に任ぜられた。721年帰京し,中務卿。729年(天平1)大宰大弐の任にあるとき,長屋王の変によって,権(かり)に参議となり,さらに民部卿となった。731年参議,山陽道鎮撫使,翌年中納言山陰道節度使に任ぜられ,因幡伯耆,出雲,石見安芸周防長門等の警固式を作った。734年正三位。736年新羅使自国を王城国と号し入朝したことを糾問し,使者を返している。
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朝日日本歴史人物事典 「多治比県守」の解説

多治比県守

没年:天平9.6.23(737.7.25)
生年:生年不詳
8世紀前半の公卿。嶋の子。慶雲2(705)年従五位下に叙され,造宮卿として平城京造営にも従事した。霊亀2(716)年遣唐押使となって入唐し,この前後の遣唐使としては珍しく,養老2(718)年無事帰国した。のち,按察使,征夷将軍,中務卿などを歴任し,長屋王の変(729)の際に,臨時の参議となり,政治の中枢に参画した。天平4(732)年中納言,次いで山陰道節度使を兼ね,この地域の警固式(外敵に対する防備規定)を作ったという。同6年来日した新羅使が国名を王城国と号したのを糾問し,これを追い返している。遣唐使の経歴を有し,国際的な視野を持っていたと思われる一方,対外強硬派的側面もあった。

(森公章)

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「多治比県守」の意味・わかりやすい解説

多治比県守
たじひのあがたもり

[生]天智7(668)
[没]天平9(737).6.23.
奈良時代の公卿。左大臣嶋 (多治比嶋) の子。中納言,正三位にいたる。養老1 (717) 年遣唐押使として,玄 昉吉備真備らを伴い入唐。帰国後,同4年には持節征夷将軍に任じられ,蝦夷の平定に従事した。天平初年の参議高卿の一人にあげられている。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「多治比県守」の解説

多治比県守 たじひの-あがたもり

668-737 奈良時代の公卿(くぎょう)。
天智(てんじ)天皇7年生まれ。多治比島の子。養老元年遣唐使として唐(中国)にわたり,翌年帰国。持節征夷(じせつせいい)将軍,参議,中納言および山陰道節度使などを歴任し,正三位にすすむ。平城京で流行した疫病のため,天平(てんぴょう)9年6月23/25日死去。70歳。氏は丹比ともかく。

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