免疫学者。茨城県生まれ。1959年(昭和34)千葉大学医学部卒業。同大学医学部教授を経て、1977年から1992年(平成4)まで東京大学医学部教授。1995年より東京理科大学生命科学研究所長。2001年脳梗塞(のうこうそく)の発作により右半身麻痺(まひ)となり、発声と嚥下(えんげ)機能を失った後も、左手のみでワープロを打ち著作活動を続ける。
日本における免疫学草創期から研究に携わり、1971年サプレッサー(抑制)T細胞の発見で世界的に知られる(その後サプレッサーT細胞の存在は否定された)。1984年文化功労者。1985~1988年日本免疫学会会長、1995年国際免疫連合(IUIS:International Union of Immunological Societies)の会長に選出され、その後3年間同連合の国際的活動において指導的な役割を果たした。
分子生物学の発展により急速に進展した現代免疫学の牽引(けんいん)者の一人。1980年代に発生した新しい病であるエイズ(AIDS、後天性免疫不全症候群)に対して社会的関心が高まったことと、免疫系こそが自己と非自己を決定するという多田の哲学的認識が注目されたことから、『免疫の意味論』(1993年。大仏(おさらぎ)次郎賞)は、分子生物学に依拠した科学書・思想書としては異例のベストセラーとなった。また、きわめて複雑な生命現象である免疫においては、T細胞やB細胞などの種々の細胞と抗体やサイトカイン(生理活性物質)などの種々の分子が複雑にからみ合いながら全体を構成することから、多田は免疫系を超(スーパー)システムとよぶ。この意味で、自己とは固定化された静的システムではなく自己言及により自己組織化を続ける動的なシステムであると多田は定義した。同様に、個体発生や脳神経系、言語の生成過程、大都市の成立と発展、多民族国家の成立などにも超システムの概念が適用されるとしている。いずれも、未決定の始原的な存在が、まず複数化することによって多様性を生じ、その多様性を介して自己組織化を進めてゆく自己創出系であるとみなすことができる。
そのほかの著書には『免疫学入門』(1983。螺良英郎(つぶらえいろう)(1925― )との共編)、『ビルマの鳥の木』(1986)、『生と死の様式』(1991、河合隼雄(かわいはやお)との共編)、『イタリアの旅から』(1992)、『生命の意味論』(1997)、『免疫学個人授業』(1997。南伸坊(みなみしんぼう)(1947― )との共著)、『独酌余滴(どくしゃくよてき)』(2000。日本エッセイスト・クラブ賞)、『私のガラクタ美術館』(2000)、『邂逅(かいこう)』(2003。鶴見和子(1918―2006)との共著)などがある。能の小鼓にも秀(ひい)で、1991年脳死状態の男が「われは生き人か死に人か」と脳死判定の可否を問う新作能『無明(むみょう)の井』を発表した。ほかにアインシュタインを主人公とした新作能も発表。
[大和雅之]
『多田富雄・螺良英郎編『免疫学入門』(1983・医薬の門社)』▽『多田富雄・河合隼雄編『生と死の様式――脳死時代を迎える日本人の死生観』(1991・誠信書房)』▽『『イタリアの旅から――科学者による美術紀行』(1992・誠信書房/新潮文庫)』▽『『免疫の意味論』(1993・青土社)』▽『『生命の意味論』(1997・新潮社)』▽『『独酌余滴』(1999・朝日新聞社)』▽『『私のガラクタ美術館』(2000・朝日新聞社)』▽『多田富雄・鶴見和子著『邂逅』(2003・藤原書店)』▽『『ビルマの鳥の木』(新潮文庫)』▽『多田富雄・南伸坊著『免疫学個人授業』(新潮文庫)』
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