多賀城碑(読み)タガジョウヒ

デジタル大辞泉 「多賀城碑」の意味・読み・例文・類語

たがじょう‐ひ〔たがジヤウ‐〕【多賀城碑】

多賀城跡にある石碑。高さ1.8メートル余。碑面には、蝦夷えぞ常陸ひたち下野しもつけ靺鞨まっかつの国境から多賀城までの距離、多賀城の建置および修造の由来が刻まれ、天平宝字6年(762)12月1日日付がある。つぼいしぶみ古代三碑の一。

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日本歴史地名大系 「多賀城碑」の解説

多賀城碑
たがじようひ

[現在地名]多賀城市市川

多賀城跡の外郭南門付近に建つ天平宝字六年(七六二)紀年銘をもつ古碑壺碑つぼのいしぶみともよばれ、日本三古碑の一つともされている。この碑は江戸時代初期に掘出されたものといわれ、発見当時以来南門内側の小高い丘の上に碑面を西に向けて建てられている。現在は仙台藩が建てた宝形造の覆堂の中に納められて保護されている。碑は高さ一九六センチ、幅九二センチ、厚さ七〇センチの大きな砂岩礫を素材とし、碑面部分は平坦に加工されている。碑面には中央上部に大きく「西」の一字が刻まれ、その下には細い界線に囲まれた縦一二二センチ、横七九センチの範囲に以下のような一一行一四〇字が彫られている。

<資料は省略されています>

碑文の内容をみると、まず最初の五行に多賀城から京および蝦夷・常陸・下野・靺鞨各々の国の境界までの距離を記し、次の二行には多賀城は神亀元年(七二四)に按察使兼鎮守将軍の大野東人が築いたものであること、これに続く三行に天平宝字六年に参議で按察使兼鎮守将軍の藤原恵美朝が多賀城を修造したことを記載し、最後の一行には碑の建立年月日を刻んでいる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

日本大百科全書(ニッポニカ) 「多賀城碑」の意味・わかりやすい解説

多賀城碑
たがじょうひ

762年(天平宝字6)に多賀城の修造を記念して建てられた碑。日本三古碑の一つ。宮城県多賀城市市川の多賀城跡の外郭南門を入った地点に西面して立つ。高さ247センチメートル、幅104センチメートル、厚さ73センチメートルで、下端50センチメートルほどが土中に埋まる。砂岩の自然石の一面を平滑に加工して、頭部に「西」の大きな字、その下に長方形の枠の中に11行に140字を刻む。碑文の内容は、前半に平城京、蝦夷(えみし)国界、常陸国界、下野(しもつけ)国界、靺鞨(まっかつ)国界からのそれぞれの里程を記して多賀城の位置を示し、後半に724年(神亀1)に大野東人(おおののあづまひと)が創建し、762年に藤原恵美朝獦(えみのあさかり)が修造したという多賀城の沿革を記し、末尾に建碑した天平宝字6年12月1日の日付を刻む。この碑は1658年(万治1)以前に発見され、当初から平安時代末の歌枕「壺(つぼ)の碑(いしぶみ)」に当てられてきたが、これは誤りである。明治・大正年間以来、里程、国号、官位などの内容、碑形、文字の彫り方、書風などの諸点から、江戸時代に捏造されたという偽作説が有力視されてきたが、発掘調査によって明らかになった多賀城の変遷と沿革の記載の合致や、碑の再検討から偽作説の根拠が有効でないことが明らかになり、現在では762年建立の真物と考えられている。碑の発掘調査によって、碑が最初からほぼ現在地に立っていて、一度倒れて17世紀前半に再び立て直されたことが明らかになった。この地点は多賀城の外郭南門を入り、その南門から政庁南門に至る道路のすぐ東で、この道路に対して西面して立っていたのであり、記念碑を建てるのに好適な場所であった。現在碑は1875年(明治8)建造の宝形造(ほうぎょうづくり)の覆屋(おおいや)に収められているが、最初の覆屋は1694年(元禄7)から遠くない時期に設けられた。1998年(平成10)6月に国重要文化財に指定。史料に多賀城の沿革は詳しく記されず、多賀城の4時期変遷の第1期が724年、第2期が762年であることを明らかにする本碑は多賀城研究の上で重要である。

[今泉隆雄]

『安倍辰夫・平川南著『多賀城碑』増補版(1999・雄山閣出版)』


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改訂新版 世界大百科事典 「多賀城碑」の意味・わかりやすい解説

多賀城碑 (たがじょうひ)

宮城県多賀城市市川の特別史跡多賀城跡内の小高い丘にある碑。〈壺の碑(つぼのいしぶみ)〉ともいう。多賀城は,古代における陸奥国国府のあったところで,奈良時代には鎮守府もあわせ置かれた。碑は高さ約2m,幅90cmほどで,覆堂(おおいどう)の中にある。碑の内容は大きく三つに分けられ,はじめに多賀城から京,蝦夷(えみし)国,下野国(栃木県),常陸国(茨城県),靺鞨(まつかつ)国(中国の東北部)までのそれぞれの里程が書かれ,次に多賀城が724年(神亀1)大野東人(あずまひと)によって造られ,さらに762年(天平宝字6)藤原朝獦(あさかり)の手によって修理されたことが記されている。この碑は江戸時代の初めころから世に知られるようになり,松尾芭蕉も《奥の細道》の旅で訪れている。明治に入り,碑の偽作説が唱えられ,現在に至るまで主流を占めてきた。しかし,これまでの偽作説の根拠も説得性に乏しく,また現存する当時の文献に記載されていない内容も含むことから,碑の資料的価値が注目されはじめている。
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出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報

世界大百科事典(旧版)内の多賀城碑の言及

【多賀城】より

…その遺跡は,宮城県多賀城市市川,浮島の地にある。江戸時代から,日本三古碑の一つ多賀城碑が存在することや,瓦が多数出土することからこの地が多賀城の跡であることが知られていた。
[沿革]
 多賀城の創建は,六国史等に明示されていない。…

※「多賀城碑」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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