多賀城跡(読み)たがじょうあと

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

多賀城跡
たがじょうあと

宮城県多賀城市にある奈良・平安時代国衙城柵遺跡多賀城は,奈良時代初めに陸奥国府鎮守府の所在として造営され,天平9 (737) 年に多賀柵として史書に初見し,宝亀 11 (780) 年の伊治呰麻呂の乱で焼かれたが,8世紀末の蝦夷との武力衝突では律令政府側の基地として武備が加えられた。鎮守府の胆沢城移転後の平安時代にも国府は存続した。台地端にあり1辺約 900mの不整方形をした遺跡は,処々に門,櫓の遺構のある築地跡が周囲に残り,内部には政庁その他の官衙や倉の建物跡の礎石や掘立柱穴,竪穴住居址などがあり,木簡漆紙文書片,硯,土器,古瓦や鉄製武器が出土する。城跡の南東に付属寺院の多賀城廃寺跡がある。

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国指定史跡ガイドの解説

たがじょうあと【多賀城跡】


宮城県多賀城市市川ほかにある古代の城柵跡。指定名称は「多賀城跡 附寺跡(つけたりてらあと)」。東の塩竈(しおがま)市から延びてくる低い丘陵上に立地する。724年(神亀1)、後に按察使(あぜち)になる大野東人(おおののあずまひと)が築城したとされ、奈良時代以降、蝦夷(えみし)を制圧する東北経略の基地となった。当時は平城京を中心に、東に鎮守府兼陸奥国府としての多賀城、西に大宰府(だざいふ)が置かれた。その後、室町時代まで、長く東北地方の軍事的・政治的中心地として重要な役割を果たした。780年(宝亀11)、蝦夷の族長伊治呰麻呂(いじのあざまろ)は朝廷側に属する役人でもあったが、権力をかさに着た同僚の侮蔑に怒り、反乱を起こした。最高権力者の按察使・紀広純(きのひろずみ)を殺し、多賀城を攻めて焼き払うという大事件になった。呰麻呂の乱は蝦夷の抵抗を誘発し、四半世紀にわたって反乱が続いた。802年(延暦21)には坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)が蝦夷討伐を行い、鎮守府は胆沢(いさわ)城に移された。1961年(昭和36)~1965年(昭和40)の発掘調査の結果、城跡の中央部の内城跡と呼ばれている地域と、多賀城にともなうと考えられる寺跡で、類まれな遺構群が見つかった。ことに内城跡は、正殿跡・後殿跡と4棟の脇殿跡などを備えており、朝堂院(ちょうどういん)的配置をとっている。多賀城跡附寺跡は、再三の追加指定により現在の指定地は、おおむね城跡外郭築地内と多賀城廃寺(あるいは高崎廃寺跡)の部分である。ところが、城跡外郭築地の東南隅約200mの地にある小丘上で、1979年(昭和54)、古代の掘立柱建物6棟と中世の掘立柱建物18棟の建物遺構が発見された。大きく4期の造営時期に分けられるが、このうち古代建物跡群は、4間×7間の4面庇付き建物を中心に、その北の2間×4間以上の建物、南の2間×7間の建物が南北1列に並び、その南北方位は多賀城の内郭建物の方位と一致する。他の3棟の建物跡は、中心建物の西で1棟、東で2棟発見された。6棟とも建て替えられた痕跡はなく、その建築時期は、出土した須恵器(すえき)から、多賀城第3期ないし第4期と考えられる。中世建物跡は18世紀に仙台藩が書かせた『安永風土記書上』から判断して、国司・浮嶋太夫が居住したと伝えられる館屋敷に関係があるのではないかと考えられており、館屋敷造成の際、古代の地形が改変されたものと思われる。1922年(大正11)に国の史跡、1966(昭和41)に国の特別史跡に指定された。JR東北本線国府多賀城駅から徒歩約15分。

出典 講談社国指定史跡ガイドについて 情報

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