多賀城跡(読み)たがじようあと

日本歴史地名大系 「多賀城跡」の解説

多賀城跡
たがじようあと

[現在地名]多賀城市市川・浮島

律令国家が東北地方にいくつか設置した古代城柵の中枢機関であるとともに、奈良・平安時代の陸奥国の国府でもあり、九世紀初頭に胆沢いさわ(現岩手県水沢市)が築かれるまでは鎮守府が併置されるなど、古代東北の政治・軍事の中心をなした官衙。仙台海岸平野の北東に位置し、塩竈方面から西に延びる小丘陵の先端部を中心に一部沖積地も取込んで立地。南と西は沖積地に面し、北と東は沢で画され、平面形は不整な方形をなす。規模は東辺一〇〇〇メートル、南辺八六〇メートル、西辺六七〇メートル、北辺七七〇メートルほどで、ほぼ方八町の広さをもつ。標高は約四メートルから約五〇メートルにまたがり、城内にはかなりの起伏がある。

多賀城に関連する史料の初見は「続日本紀」天平九年(七三七)四月一四日条であり、ここでは多賀柵の名で記載されている。創建年代については多賀城碑に神亀元年(七二四)とあるが、文献上では必ずしも明確ではない。しかし、八世紀初頭に陸奥国では最上もがみ置賜おきたま二郡の出羽国への移管や石城いわき国・石背いわしろ国の分置など大幅な地方行政機構の再編成が実施されていることや、多賀城にかかわるとみられる陸奥鎮所鎮守将軍按察使などの史料が養老―神亀年間(七一七―七二九)に集中していることなどの総合的な検討によると、多賀城の創建時期は養老―神亀の頃とみるのが妥当とされており、これは多賀城碑や考古学的にみた創建瓦の推定年代とも矛盾しない。天平九年四月一四日条は鎮守府将軍大野東人が中心となって、陸奥国と秋田村高清水岡たかしみずおか(現秋田市)にある出羽柵との間を最短距離で結ぶ連絡路を開こうとしたことを記している。多賀柵は終始この事業の拠点となっていることから、この時期にはすでに多賀柵が陸奥国の中心的な官衙であったとみられる。次いで、同書宝亀一一年(七八〇)三月二二日条に多賀城の名が初めてみえ、この年に上治郡の大領である伊治公呰麻呂が伊治これはる(現栗原郡築館町)で反乱を起こし、按察使紀広純以下の官人を殺害したことなどを伝えている。この時多賀城も呰麻呂が率いる蝦夷軍に襲われて倉庫に蓄えてあった食糧や武器を奪われたうえ、放火にあい炎上した。その後、しばらくは律令政府側と蝦夷側との間で戦闘が繰返されているが、こうした情勢のなかで多賀城は政府側の拠点として「続日本後紀」承和六年(八三九)四月二六日条に至るまでしばしば文献に登場する。この間延暦二一年(八〇二)には、鎮守府は胆沢城に移されたが、国府および陸奥・出羽按察使が常駐する官衙として依然重要な位置にあった。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

国指定史跡ガイド 「多賀城跡」の解説

たがじょうあと【多賀城跡】


宮城県多賀城市市川ほかにある古代の城柵跡。指定名称は「多賀城跡 附寺跡(つけたりてらあと)」。東の塩竈(しおがま)市から延びてくる低い丘陵上に立地する。724年(神亀1)、後に按察使(あぜち)になる大野東人(おおののあずまひと)が築城したとされ、奈良時代以降、蝦夷(えみし)を制圧する東北経略の基地となった。当時は平城京を中心に、東に鎮守府兼陸奥国府としての多賀城、西に大宰府(だざいふ)が置かれた。その後、室町時代まで、長く東北地方の軍事的・政治的中心地として重要な役割を果たした。780年(宝亀11)、蝦夷の族長伊治呰麻呂(いじのあざまろ)は朝廷側に属する役人でもあったが、権力をかさに着た同僚の侮蔑に怒り、反乱を起こした。最高権力者の按察使・紀広純(きのひろずみ)を殺し、多賀城を攻めて焼き払うという大事件になった。呰麻呂の乱は蝦夷の抵抗を誘発し、四半世紀にわたって反乱が続いた。802年(延暦21)には坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)が蝦夷討伐を行い、鎮守府は胆沢(いさわ)城に移された。1961年(昭和36)~1965年(昭和40)の発掘調査の結果、城跡の中央部の内城跡と呼ばれている地域と、多賀城にともなうと考えられる寺跡で、類まれな遺構群が見つかった。ことに内城跡は、正殿跡・後殿跡と4棟の脇殿跡などを備えており、朝堂院(ちょうどういん)的配置をとっている。多賀城跡附寺跡は、再三の追加指定により現在の指定地は、おおむね城跡外郭築地内と多賀城廃寺(あるいは高崎廃寺跡)の部分である。ところが、城跡外郭築地の東南隅約200mの地にある小丘上で、1979年(昭和54)、古代の掘立柱建物6棟と中世の掘立柱建物18棟の建物遺構が発見された。大きく4期の造営時期に分けられるが、このうち古代建物跡群は、4間×7間の4面庇付き建物を中心に、その北の2間×4間以上の建物、南の2間×7間の建物が南北1列に並び、その南北方位は多賀城の内郭建物の方位と一致する。他の3棟の建物跡は、中心建物の西で1棟、東で2棟発見された。6棟とも建て替えられた痕跡はなく、その建築時期は、出土した須恵器(すえき)から、多賀城第3期ないし第4期と考えられる。中世建物跡は18世紀に仙台藩が書かせた『安永風土記書上』から判断して、国司・浮嶋太夫が居住したと伝えられる館屋敷に関係があるのではないかと考えられており、館屋敷造成の際、古代の地形が改変されたものと思われる。1922年(大正11)に国の史跡、1966(昭和41)に国の特別史跡に指定された。JR東北本線国府多賀城駅から徒歩約15分。

出典 講談社国指定史跡ガイドについて 情報

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「多賀城跡」の意味・わかりやすい解説

多賀城跡
たがじょうあと

宮城県多賀城市にある奈良・平安時代の国衙と城柵の遺跡。多賀城は,奈良時代初めに陸奥国府と鎮守府の所在として造営され,天平9 (737) 年に多賀柵として史書に初見し,宝亀 11 (780) 年の伊治呰麻呂の乱で焼かれたが,8世紀末の蝦夷との武力衝突では律令政府側の基地として武備が加えられた。鎮守府の胆沢城移転後の平安時代にも国府は存続した。台地端にあり1辺約 900mの不整方形をした遺跡は,処々に門,櫓の遺構のある築地跡が周囲に残り,内部には政庁その他の官衙や倉の建物跡の礎石や掘立柱穴,竪穴住居址などがあり,木簡,漆紙文書片,硯,土器,古瓦や鉄製武器が出土する。城跡の南東に付属寺院の多賀城廃寺跡がある。

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事典・日本の観光資源 「多賀城跡」の解説

多賀城跡

(宮城県多賀城市)
ふるさとみやぎ文化百選 建造物とまちなみ編」指定の観光名所。

出典 日外アソシエーツ「事典・日本の観光資源」事典・日本の観光資源について 情報

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