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乃木希典 のぎ まれすけ

朝日新聞掲載「キーワード」の解説

乃木希典

明治時代の軍人。陸軍大将。1849(嘉永2)年、長州藩支藩の藩士の子として生まれる。日露戦争では旅順要塞(ようさい)を攻略。のちに学習院院長を務めた。1912年、明治天皇の没後に殉死。東京の乃木坂や各地の乃木神社に名を残す。

(2015-02-23 朝日新聞 朝刊 香川全県・1地方)

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百科事典マイペディアの解説

乃木希典【のぎまれすけ】

明治時代の軍人。長州萩藩出身。1886年川上操六らと渡独し軍事研究。陸軍少佐として西南戦争に参加,軍旗を薩軍に奪われたのを一生の恥とした。日清戦争に歩兵第一旅団長として従軍
→関連項目殉死ステッセリ日露戦争二百三高地

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デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

乃木希典 のぎ-まれすけ

1849-1912 明治時代の軍人。
嘉永(かえい)2年11月11日生まれ。長門(ながと)(山口県)府中藩士の子。明治4年陸軍少佐となり,西南戦争に従軍。歩兵第一旅団長,台湾総督などをへて,日露戦争では第三軍司令官として旅順攻撃を指揮。37年陸軍大将,40年学習院院長。明治天皇大葬の日の大正元年9月13日,妻の静子とともに殉死した。64歳。号は静堂,石林子など。
【格言など】うつし世を神さりましし大君のみあとしたひて我はゆくなり(辞世)

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朝日日本歴史人物事典の解説

乃木希典

没年:大正1.9.13(1912)
生年:嘉永2.11.11(1849.12.25)
明治期の代表的陸軍軍人。長府藩(長州藩の支藩)藩士乃木希次の3男。幼名は無人。文を志し吉田松陰の叔父玉木文之進の塾をめざしたが,文武両道を諭され入門を許された。明治4(1871)年陸軍少佐。西南戦争では歩兵第14連隊長心得を務め,田原坂の激戦で連隊旗を失う。これが終生乃木を苦しめたといわれている。母寿子は妻帯を勧め,11年8月27日薩摩(鹿児島)藩士湯地定之の4女お七(結婚後,静子)と結婚させたが,鬱屈の情を酒にまぎらす日々は続いた。しかし,19年川上操六とドイツに留学し戦術を研究したことが転機となった。帰国後,軍紀確立などに関する意見書を提出する一方,自らは常に軍服で身を律した。日清戦争では第1旅団長として旅順を占領した。28年中将に進み,翌年台湾総督に就任。日露戦争では大将,第3軍司令官として出征し,難攻不落といわれた旅順要塞を3回にわたって総攻撃し,37年12月5日203高地を占領した。翌年1月1日,旅順要塞司令官ステッセル中将の降伏申し入れに同意,翌日水師営で開城規約が成立,5日ステッセルと会見した。旅順陥落までの戦闘で2子が戦死し,悲劇の将軍として国民的敬愛を集めた。3月奉天(瀋陽)の会戦で第3軍は北方へ退くロシア軍と激戦を展開した。39年軍事参議官。40年伯爵,明治天皇の信任厚く,41年学習院院長に任じられた。明治天皇大葬の日,東京赤坂の自宅で割腹して殉死し,夫人もその後を追った。「水師営の会見」(作詞・佐佐木信綱,作曲・岡野貞一)は,文部省唱歌として歌われた。<参考文献>大浜徹也『乃木希典』,和田政雄『乃木希典日記』,黒木勇吉『乃木希典』

(影山好一郎)

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世界大百科事典 第2版の解説

のぎまれすけ【乃木希典】

1849‐1912(嘉永2‐大正1)
明治期の代表的陸軍軍人。海軍の東郷平八郎とともに〈聖将〉と呼ばれた。長州藩士の出身。吉田松陰に心服し,伯父玉木文之進の塾に学ぶ。藩の新軍に加わり第2次征長戦争に山県有朋の指揮下で戦い,1871年(明治4)新陸軍の少佐となり,西南戦争に歩兵第14連隊長心得として参加,軍旗を薩軍に奪われ一生の恥辱とした。86年川上操六らとドイツ留学の後,94年日清戦争に歩兵第1旅団長(少将)として出征し旅順口要塞を1日で攻略したが,占領時の大虐殺事件が世界の非難の的となった。

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大辞林 第三版の解説

のぎまれすけ【乃木希典】

1849~1912) 陸軍軍人。大将。長州の人。日清戦争に第一旅団長として従軍。日露戦争では第三軍司令官として旅順を攻略。のち、学習院長。静子夫人とともに明治天皇の大葬の日に殉死。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

乃木希典
のぎまれすけ

[生]嘉永2(1849).11.11. 江戸
[没]1912.9.13. 東京
陸軍軍人。長州の支藩である長府藩士乃木希次の三男。藩の集童場で文武を修業。江戸幕府の長州征伐のとき,長府藩士で組織された報国隊に加わり,砲兵隊員として戦闘に参加。戊辰 (ぼしん) 戦争にも加わり,明治1 (1868) 年 10月報国隊読書掛となった。その後京都に赴き,陸兵練兵教官などを務めたあと,同4年東京に出て新御親兵隊の陸軍少佐に任官。 1875年小倉の歩兵第 14連隊長心得。萩の乱西南戦争に参加したが,西南戦争では,軍旗を敵の手に奪われた。 1878年8月鹿児島県出身の湯地定基の娘静子と結婚。 1883年東京鎮台参謀長,1885年少将,歩兵第 11旅団長。 1886~88年ドイツに留学。日清戦争では歩兵第1旅団長,また第2師団長として参加。 1896~98年まで台湾総督。 1904年日露戦争勃発時には休職中であったが,留守近衛師団長として召集され,同年5月第3軍司令官として旅順を攻略。同年大将。 1907年学習院院長。明治天皇崩御後,大葬の日に東京の自宅で夫人静子とともに殉死。当時の国軍の最高峰として「海軍の東郷,陸軍の乃木」と並び称された。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

乃木希典
のぎまれすけ
(1849―1912)

陸軍大将。嘉永(かえい)2年11月11日、長州藩士族乃木希次(まれつぐ)の三男として江戸藩邸に生まれる。萩(はぎ)(山口県萩市)の明倫館(めいりんかん)に学び、報国隊に属し、戊辰戦争(ぼしんせんそう)では東北を転戦。維新後、フランス式軍事教育を受け、1871年(明治4)陸軍少佐となる。西南戦争では歩兵一四連隊長として出陣、植木の戦いで西郷軍に軍旗を奪われ、自決を決意したが思いとどまった。1886年11月ドイツ留学、翌1887年6月帰国し、近衛(このえ)歩兵第二旅団長などを経て一時休職となったが歩兵第一旅団長に復職。日清戦争には第二軍に属し、戦争末期には第二師団長となり、台湾に進駐し、1896年に第3代台湾総督となった。日露戦争には第三軍司令官となり、大将に昇進、旅順(りょじゅん)を苦戦のすえに攻略。凱旋(がいせん)後、軍事参議官、1907年(明治40)には学習院長を兼任、伯爵を授けられる。1912年9月13日、明治天皇の大喪儀(たいそうぎ)当日妻静子と自刃した。軍人としては戦略、機略に乏しかったが、古武士的精神主義者として、その後の日本軍隊に影響を与えた。[由井正臣]
『横山健堂著『大将乃木』(1912・敬文館) ▽松下芳男著『乃木希典』(1960・吉川弘文館)』

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世界大百科事典内の乃木希典の言及

【殉死】より

…5代将軍綱吉の代からは武家諸法度の本文に殉死禁止の条項が加えられた。 近代になって,長く絶えていた殉死が再現されて人々を驚かせたのは,1912年9月,明治天皇の大喪の日に陸軍大将乃木希典が,夫人とともに天皇の恩に対する感謝と謝罪の意を述べた遺書を残して自殺したことであった。この殉死は,一部の知識人からは時代錯誤として批判的に見られたが,一般には美談とされ,やがて政府により軍国主義の風潮を鼓吹するために利用されることともなった。…

【玉木文之進】より

…同藩士玉木正路の養子となり,30代の初めに松下村塾を開いて松陰や杉民治らを教育した。時期が異なるが乃木希典(まれすけ)を寄寓させたこともある。明倫館の都講や諸郡の代官,また郡奉行なども務めた。…

【日露戦争】より

…8月末から9月初めの遼陽の戦は,日露両軍が総力を結集した戦闘となり,双方ともに2万名以上の損害を出すという激戦となり,ここでもロシア軍は後退したが,日本軍の被った打撃も深刻なものがあった。他方,乃木希典(まれすけ)を司令官とする第3軍の旅順攻略も8月下旬から開始され,3度の総攻撃を含む攻囲戦は日本軍が6万名近い死傷者を出して,05年1月ようやく開城させることができた。3月の奉天会戦も日露両軍ともに最大限の兵力を結集しての激闘となり,日本側にとってこれ以上戦争を継続することは,軍事力のうえでも,戦費負担の面でも限界をこえるものになっていた。…

【乃木神社】より

…陸軍大将乃木希典(まれすけ)をまつる神社で,各地にある。乃木大将は,明治天皇大葬の1912年9月13日の夜,夫人静子とともに殉死した。…

【森鷗外】より

…やや長編の作では,知識青年の個性形成史を追った《青年》(1910‐11),薄幸な女性のひそかな覚醒と失意のドラマを描いた《》(1911‐13)などがあり,後者は青春の追憶をこめたロマンティックな抒情がただよう。 大正期の鷗外は乃木希典の殉死に触発されて,歴史小説に新しい領域を開くことになった。《興津弥五右衛門の遺書》(初稿1912)は殉死者の遺書に擬して乃木への賛歌を語り,《阿部一族》(1913)は殉死の掟と人間性の相克を描いて,武士道を貫いた死者への感動を隠さない。…

【旅順攻略】より

…1904年日露戦争が勃発すると,日本はロシアの太平洋艦隊の基地である旅順をバルチック艦隊の来着に先立ち占領し,制海権を確保するため,乃木希典の第3軍(4個師団,後方部隊を含み約13万)をもってロシア軍司令官A.M.ステッセリの守る旅順要塞を陸路攻撃した。同年8月第1回の総攻撃は強襲により行われたが失敗し,10月の第2回総攻撃は正攻法によったが再び失敗,11月よりの第3回総攻撃の途中から二百三高地に重点を変更してこれを占領,ここに観測所を設けて28cm重砲により港内のロシア艦隊のほとんどを撃破するに及び,05年1月1日旅順は陥落し,講和の気運が生じてきた。…

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