大井野村
おおいのむら
[現在地名]岡崎市大井野町
青木川の支流の合流点を東方に上ると川に沿って道はしだいに傾斜を高め、再び二つの渓流が分れる。標高二五一メートルの山を北に、南に二二五メートル、東に二一二メートルの山がめぐり、この谷間に散在する村落。北は米河内村、東は蔵次村・岩谷村・中畑村、南は板田村・田口村に接する。西に一路下れば滝村を経て岡崎城下に至る。中世、中山庄に属すという。天文以後明治に至るまで岡崎藩領。東山中手永に属し、享和二年書上によれば高二〇六石余、人別二五一人、うち男一一九・女一三二、牛二四、馬一。
大井野村
おおいのむら
[現在地名]大佐町大井野
山奥村の北西に位置し、東は美作国新庄村(現真庭郡新庄村)、北は伯耆国。集落は上組・中組・下組・伏谷・君山・赤松に散在。寛永備中国絵図によると高三六三石余、松山藩領。正保郷帳でも同高、同藩領。枝村として貞藤村・伏谷村・君山村をあげる。元禄六年(一六九三)水谷氏の断絶により収公されて検地を受けるが、山奥村に含まれて高付されている。以後幕府領として幕末に至る。天保郷帳では三九六石余(なお同郷帳には大井竹と誤記される)。当地では鉄山・鉄穴流し稼が行われており、幕末、当村の横木鹿之助は鉄山師として活躍した(岡山県史)。
大井野村
おおいのむら
[現在地名]窪川町大井野
窪川村から四万十川を隔てて西に位置する。四万十川の曲流地で、村東部の湾曲部内側にまとまった平地が形成されている。江戸時代の新田村であるが、天正一七年(一五八九)の仁井田之郷地検帳にすでに大井野の地名がみえ、地積二町一反余で西原分と窪川分が混在。江戸時代になって近世村として再編されたとき、検地で打出された地は近隣の村に属したと考えられるが、どの村に含まれたか不明。地名の起りについて仁井田之社鎮座伝記(「南路志」所収)の笈神の項に「五社より南の方渓に鎮め斎ふ、此社は蹉
山にて弘法大師五社の本地を作り、蹉
山の山伏に負せ来れる、其笈に一幣を納めて南の渓に遷して笈神と斎祭る(中略)又其所の在名を笈野村と呼ふは此故也、今は文字書替て大井野村とす」とみえ、荒野で人家も少なかったが、承応(一六五二―五五)頃に高塚六大夫なる者が開発したとの伝えを載せる。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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