大口城跡(読み)おおくちじようあと

日本歴史地名大系 「大口城跡」の解説

大口城跡
おおくちじようあと

[現在地名]大口市里・原田

羽月はつき川東岸の標高二二五メートルを最高地点とするシラス丘陵とその周囲に築かれた山城牛屎うしくそ城・牛山うしやま城・牟田口むたぐち城ともいう。平安末期近衛府相撲人であった太秦(大秦)氏が牛屎院郡司となり、のちその子孫は牛屎氏を称した。「三国名勝図会」は保元三年(一一五八)に当地へ入った太秦元衡が当城を築いたとし、「薩隅日三州他家古城主来由記」は牛屎元包を最初の城主とする。牛屎系図(大口市郷土誌)には元衡が羽月に入り、その子元永のとき一族赤田氏が牛山に城を築いて背いたので菱刈氏と肥後相良氏が平定し、その後相良氏が在城、元茂が奪還したとするがいずれも確認できない。鎌倉期牛屎氏は牛山を拠点に青木あおき大田おおた・羽月・山野やまの分家を出し、篠原しのはらを領有する光武みつたけ名主で檜前系篠原氏や菱刈氏・相良氏、牛屎院地頭の守護一族の庶家宇宿氏と争いながら、鎌倉末期には支配の基礎を固めた。牛屎氏は高元の代の建武三年(一三三六)、肝付兼重らの拠る加瀬田かせだ(現輝北町)攻めを足利直義より催促されるなど足利方にくみし(同年四月二一日「足利直義軍勢催促状」旧記雑録)、文和二年(一三五三)足利直冬方の畠山直顕あるいは宮方にくみして守護島津貞久に反しており(「薩摩宮方交名注文」同書)、南北朝初期に当城を恒常的に使用するようになっていたと考えられる。永和三年(一三七七)島津氏に対抗して南九州の国人らの間で結ばれた一揆(永和大一揆)に牛屎一族も加わっていた(同年一〇月二八日「一揆神水契状案」禰寝文書)。応永二三年(一四一六)から同三二年の間に作成されたと思われる福昌寺仏殿造営奉加帳(旧記雑録)では牛屎の越後守久元が馬一疋(代銭一貫文)を奉納したことがみえる。

しかし長禄二年(一四五八)から寛正六年(一四六五)まで、当城をさすとみられる牛山は島津氏により肥後の相良長続に預けられ(「相良氏山門知行以下由緒書」相良家文書)、牛屎氏は日向真幸まさき(現宮崎県えびの市)に追われた(前掲系図)


大口城跡
おおぐちじようあと

[現在地名]御所市大字富田小字城山

国見くにみ山西南麓の大口峠にあり、付近に城山しろやま城山北しろやまきたはらなどの小字が残り、御所付近から吉野に至る要害に立地。「大和志」には「冨田村城山内縫殿助拠」とある。現在、天満神社前にある正和四年(一三一五)在銘の五輪塔は、もと大口峠にあったと伝え、同峠開削の際、移したという。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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