大島浩(読み)おおしまひろし

日本大百科全書(ニッポニカ) 「大島浩」の意味・わかりやすい解説

大島浩
おおしまひろし
(1886―1975)

陸軍軍人外交官岐阜県に生まれる。父は元陸相大島建一。1905年(明治38)陸軍士官学校卒業、1915年(大正4)陸軍大学校卒業。砲兵大尉、参謀本部員、駐オーストリア武官、参謀本部課長などを経て、1934年(昭和9)ドイツ大使館付武官となり、親ナチス派として1936年の日独防共協定締結推進した。1938年には中将となり、予備役に編入ののち駐ドイツ大使に就任。日独伊三国軍事同盟締結を画策した。1939年の独ソ不可侵条約締結により三国同盟問題が中断したため大使を辞任したが、1940年三国同盟締結ののち、ふたたび駐ドイツ大使に任命された。戦後極東国際軍事裁判A級戦犯として起訴され、終身刑を受けるが、1955年(昭和30)出獄した。

[北河賢三]

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20世紀日本人名事典 「大島浩」の解説

大島 浩
オオシマ ヒロシ

明治〜昭和期の陸軍中将,外交官 元・駐ドイツ大使。



生年
明治19(1886)年4月19日

没年
昭和50(1975)年6月6日

出生地
岐阜県

学歴〔年〕
陸士(第18期)〔明治38年〕,陸大〔大正4年〕卒

経歴
昭和6年参謀本部課長、9年駐ドイツ大使館付武官、10年少将、13年中将、同年予備役、ドイツ大使となる。ベルリン駐在中、ナチスとの接触を深め、リッベントロップ外相との間で防共協定締結を画策、15年調印の日独伊三国同盟を強力に推進した。23年A級戦犯として終身刑の判決を受け、30年釈放された。

出典 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)20世紀日本人名事典について 情報

改訂新版 世界大百科事典 「大島浩」の意味・わかりやすい解説

大島浩 (おおしまひろし)
生没年:1886-1975(明治19-昭和50)

陸軍軍人(中将)。岐阜県出身。陸軍士官学校(18期),陸軍大学校卒。親ナチス派の軍人として著名。1934年ドイツ大使館付武官となり,ナチ党のJ.vonリッベントロップと接触して日独防共協定の締結を推進。38年には予備役となってドイツ大使に任命され,ドイツ,イタリアとの同盟関係強化のため正規の外交ルートをも無視して独自の外交活動を展開し問題となる。39年独ソ不可侵条約が締結された後,大使を辞任。東京裁判ではA級戦犯として終身刑。55年減刑され出獄。父,健一も陸軍中将。
執筆者:

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「大島浩」の意味・わかりやすい解説

大島浩
おおしまひろし

[生]1886.4.19. 岐阜
[没]1975.6.6. 神奈川
軍人,外交官。太平洋戦争終戦時のドイツ駐在大使。陸軍中将。 1934年ドイツ大使館付き武官となり,日独関係緊密化に努め,外務省抜きの陸軍ルートで日独防共協定締結に導いた。 38年ドイツ駐在大使となり,日独伊三国同盟の成立にあずかって力があった。戦後の極東国際軍事裁判で,A級戦犯として終身刑宣告を受けた。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「大島浩」の解説

大島浩 おおしま-ひろし

1886-1975 明治-昭和時代前期の軍人,外交官。
明治19年4月19日生まれ。大島健一長男。昭和9年ドイツ大使館付武官,13年陸軍中将。同年予備役に編入され,駐ドイツ大使となり,日独伊三国同盟を推進。戦後A級戦犯として終身刑となるが,30年に釈放された。昭和50年6月6日死去。89歳。岐阜県出身。陸軍大学校卒。

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367日誕生日大事典 「大島浩」の解説

大島 浩 (おおしま ひろし)

生年月日:1886年4月19日
明治時代-昭和時代の陸軍軍人;外交官。中将;ドイツ大使
1975年没

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