日本大百科全書(ニッポニカ) 「大幸勇吉」の意味・わかりやすい解説
大幸勇吉
おおさかゆうきち
(1867―1950)
物理化学者。明治・大正期に新興の物理化学を日本に導入するのに貢献した。石川県生まれ。1892年(明治25)帝国大学理科大学化学科を卒業、理論化学の必要を説いた桜井錠二(じょうじ)の影響を受けた。第五高等中学校教授を経て、1896年高等師範学校教授となる。1899年池田菊苗(きくなえ)とともにドイツに留学、ライプツィヒ大学のオストワルトのもとで触媒作用の反応速度論的研究を、ゲッティンゲン大学のネルンストのもとで電気化学の研究を行い、物理化学の研究方法を身につけて1902年(明治35)に帰国した。翌1903年京都帝国大学理工科大学教授に転任、おもに水と塩類の多相平衡について研究を続け、1927年定年退官した。1907年日本で最初の物理化学教科書『物理化学講義』を出版。池田菊苗は原子論を否定するオストワルト流の立場からこの書を批判したが、大幸は原子論に立脚した最新の成果を広く取り入れ、1911年には横書き、脚注つきの改訂版『物理化学』を著した。このほか、多くの参考書や啓蒙(けいもう)書を著して新しい化学の普及に努めた。
[内田正夫]