大池村(読み)おおいけむら

日本歴史地名大系 「大池村」の解説

大池村
おおいけむら

[現在地名]掛川市大池・二瀬川ふたせがわ中央高町ちゆうおうたかまち清崎きよさき七日町なのかまち秋葉路あきはみち

さか川とその支流倉真くらみ川の合流点付近に位置する。掛川宿十九首じゆうくしよ町からの東海道は村内の二瀬川に入り、大池川(逆川)に架かる大池橋を渡って大池新町に至るが、同町で北西に延びる秋葉街道を分岐する(分間延絵図など)。なお昭和二年(一九二七)に逆川の流路は改修によって二瀬川の南に移され、現在の大池橋は倉真川に架設、同川は橋の下流で逆川に合流している。村内北部の上屋敷かみやしきには、村名の由来となった大池がある。「掛川誌稿」によると、大池はかみ池と下池の二つからなり、ともに灌漑用水に利用。古代律令制下より池溝を整備し、灌漑用水による条里制が整えられた地域という。大池は現在大井川用水大池調整池となっている。

中世にみえる大池庄・大池郷は当地付近に比定される。元弘三年(一三三三)七月一九日の後醍醐天皇綸旨(由良文書)によると、北条氏遺領の地頭職が岩松経家に与えられており、その中に名越高家跡の「大池庄」が含まれている。応永六年(一三九九)一二月一一日、「大池郷北方地頭職」が道場造営料所として京都金蓮こんれん四条しじよう道場(現京都市中京区)に寄進された(「遠江守護今川仲秋寄進状」金蓮寺文書)


大池村
おいけむら

[現在地名]川南町川南

平田へだ川支流の綿打わたうち川・中須なかす川流域に位置し、北は平田川を挟んで猪窪いのくぼ村、東は平田村、南は上江うわえ(現高鍋町)高城たかじよう(現木城町)。南北に豊後街道が通る。小池村とも記す。高鍋藩川南郷に属した。寛文四年(一六六四)の高鍋藩領知目録写(高鍋町歴史総合資料館蔵)に村名がみえ、同年の高鍋藩領地覚(隈江家記)では高三六六石余。天保郷帳では高四六八石余。旧高旧領取調帳では猪窪村と合せて川南村とあり、高二千一四二石余。寛保三年(一七四三)の新納院野別府川南村之内坪付(小城家文書)によると、大池門の田畑合せて三石余が小城氏の知行となっている。


大池村
おいけむら

[現在地名]湖陵町大池おおいけ

西浜にしはま海岸にあり、北は板津いたづ村、南は(現多伎町)。村名は村の巽にじや池があり、その東にはす池・大廻おおさこ池があることに由来するという(郡村誌)。寛永五年(一六二八)の大池村御検地帳では田方五町一反余・分米五七石余、畑方は上畑五反余・分米四石余、中畑七反余・分米三石余、下畑一町一反余、屋敷数一八(うち役屋敷一三)正保国絵図に村名がみえる。元禄十年出雲国郷帳では高一三七石余、寛文四年(一六六四)の本田高一〇七石余・新田高九石余。


大池村
おおいけむら

[現在地名]西合志町御代志みよし

合志こうし台地の西に位置する畑作地帯の村。灰塚はいづか村の南にある。慶長一三年(一六〇八)検地帳に「下庄大池村」とみえ、名請人一三・戸数七・家数一一・人数一六、牛馬八、田二町四反八畝余、畠・屋敷一二町二反五畝余、分米一一一石五斗余とある。寛永一〇年(一六三三)人畜改帳によれば和生組に属し、戸数六・家数二二、人数二九(うち庄屋一・百姓三・名子一)、牛馬一一。


大池村
おおいけむら

[現在地名]山形村大池

江戸時代松本藩領に属し、のち高遠藩領の今井組に入り、幕府領に編入された。北は竹田たけだ村、西は小坂こさか村に隣接する。

大池の初見は永享一一年(一四三九)の結城陣番帳で「大池殿」とある。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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