中ソ対立(読み)ちゅうソたいりつ

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「中ソ対立」の意味・わかりやすい解説

中ソ対立
ちゅうソたいりつ

1956年2月のソ連共産党第20回大会でニキータ・セルゲーエビッチ・フルシチョフ書記長がヨシフ・ビサリオノビッチ・スターリンを批判(→スターリン批判)してから,中国とソビエト連邦両国共産党間に起こった理論的・国家的対立。1956~58年頃はイデオロギー論争だったが,1958年には核兵器の開発や対米戦略で国家間の対立にいたった。ソ連は中国の大躍進(1958)や中印国境紛争(1959)に批判的で,1960年には経済技術援助協定を破棄,ソ連技術者を中国から一斉に引き揚げた。1960年からは社会主義への移行,社会主義社会の性格,核時代の戦争と平和の問題などでイデオロギー対立がいっそう明確となり,1963年から両国共産党の間での公開論戦となった(中ソ論争)。中国はソ連指導部を「修正主義」,ソ連は中国指導部を「極左冒険主義」と非難両者の対立は世界の社会主義運動,ベトナムなど第三世界での民族紛争に多大な衝撃を与えた。中国は 1966年に始まる文化大革命以後,1968年夏のソ連のチェコスロバキアへの軍事介入(→チェコ事件),1969年3月の珍宝島事件により対ソ脅威感がつのり,1971年からは対米接近(→ニクソン訪中)でソ連の軍事的脅威に対抗する戦略的配置をしき,「社会帝国主義」ソ連をアメリカ合衆国に代わる主要敵に設定。ソ連もアジア集団安全保障体制など対中包囲の軍事網を構築し,1970年代末まで中ソの緊張と敵対が続いた。中ソ対立はイデオロギーの違いに加え,領土や安全保障などの国家利益,社会主義国家関係における主権の問題などさまざまな要因が複雑に錯綜し拡大していった。だが 1982年から両国の接触が始まり,中国の実利外交,ソ連の新思考外交のもと,1989年5月のミハイル・ゴルバチョフ書記長の訪中により両党,両国の関係は正常化した。

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山川 世界史小辞典 改訂新版 「中ソ対立」の解説

中ソ対立(ちゅうソたいりつ)

1956年2月のソ連共産党第20回大会におけるスターリン批判以来,中ソ両共産党の間には,世界情勢観,社会主義建設と革命の方式などの問題をめぐってしだいに理論対立が発展し,60年に入ると公然の論争になった。これに中ソ以外の共産党も加わって,国際共産主義運動は分裂し,多元化した。他方,ソ連技術者の中国引揚げ,国境紛争なども起こり,中ソ国家間の対立も進んだ。中国は,ソ連の平和共存政策に象徴される政策や理論を修正主義として断罪し,それとの闘争を第一義的な任務とみて,ベトナム戦争においても,ソ連を除いた国際反米統一戦線を主張した。これに対して,ソ連および多数の共産党は中国を教条主義,民族主義として非難した。64年10月のフルシチョフ首相解任後も,対立は解消せず,69年には国境での武力衝突も起こった。しかし,中国の改革・開放への転換後,80年代に政府間交渉が始まり,ペレストロイカによって87年国家関係は正常化された。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「中ソ対立」の意味・わかりやすい解説

中ソ対立
ちゅうそたいりつ

中ロ関係

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世界大百科事典(旧版)内の中ソ対立の言及

【インドシナ戦争】より

…第2次大戦後,旧フランス領インドシナ(ベトナム,ラオス,カンボジア)に起こった対フランス(第1次。1946‐54),対アメリカ(第2次。1960‐75。ベトナム戦争とも呼ぶ)民族革命戦争の総称。1978年1月以降のベトナム・カンボジア戦争,79年のカンボジア内戦と中越戦争を第3次インドシナ戦争とすることもある。
【第1次インドシナ戦争】
 19世紀末以来,上記3国はフランスの植民地下にあったが,第2次大戦中は日本軍が進駐していた。…

※「中ソ対立」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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