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大野治長 おおのはるなが

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

大野治長
おおのはるなが

[生]?
[没]元和1(1615).5.8. 大坂
安土桃山時代の武将。出自不明。通称は修理亮。豊臣秀吉に仕え,文禄の役に際しては名護屋に出陣。関ヶ原の戦いでは東軍に加わったが,大坂の陣においては再び豊臣氏に仕えて主戦派の代表となり,大坂城落城の際,秀頼とともに自殺。

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デジタル大辞泉の解説

おおの‐はるなが〔おほの‐〕【大野治長】

[?~1615]安土桃山時代の武将。通称、修理亮(しゅりのすけ)。豊臣秀吉に仕え、関ヶ原の戦いで徳川方に属したが、のち再び豊臣秀頼に仕えて徳川に対抗。大坂夏の陣で敗れ、秀頼とともに自殺。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

大野治長 おおの-はるなが

?-1615 織豊-江戸時代前期の武将。
母は大蔵卿局大野治房の兄。豊臣秀吉・秀頼につかえ,淀殿(よどどの)の信頼をえる。慶長4年徳川家康暗殺計画の容疑で一時下総(しもうさ)結城(ゆうき)(茨城県)に流される。大坂の陣では指導的役割をはたし,慶長20年5月8日大坂落城の際秀頼,淀殿にしたがって自害した。通称は修理亮。

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朝日日本歴史人物事典の解説

大野治長

没年:元和1.5.8(1615.6.4)
生年:生年不詳
安土桃山時代の武将,豊臣家の臣。通称は修理亮。秀吉の側室淀殿(秀頼の生母)の乳母でのちに侍女となった 大蔵卿局 の子。秀吉の馬廻として仕え,文禄3(1594)年伏見城の工事を分担。当時1万石を領し,従五位下侍従に叙任されていた。秀吉の死後,秀頼に近侍して警護2番衆の隊長となるが,慶長4(1599)年9月,浅野長政,土方雄久らと共に徳川家康暗殺未遂事件の容疑で捕らえられ,治長は下野(栃木県)結城に追放された。しかし翌5年,石田三成らの挙兵後まもなく赦免され,関ケ原の戦では東軍に属して奮闘した。その後再び豊臣家に仕えて秀頼を補佐し,ことに同19年10月,片桐且元方広寺鐘銘事件の責任を問われて大坂より退去したあとは中心的人物となった。同年暮れに起こった大坂冬の陣に際しては,織田有楽斎と共に停戦和議に尽力。翌元和1(1615)年の大坂夏の陣では,秀頼の室となっていた家康の孫千姫を脱出させ,自らの切腹をもって秀頼,淀殿の助命を画策したが容れられず,5月8日山里郭において秀頼,淀殿に殉じて自害した。享年は不詳であるが,淀殿と同じ年であったとする説をとれば49歳であった。なお,淀殿との密通説があり,『萩藩閥閲録』には治長が密通の罪により宇喜多秀家に預けられたと記す文書もみられるが,事実ではない。また『明良洪範』は鶴松(秀吉の第1子)も秀頼も共に淀殿と治長の不義の子とするが,これも信じ難い。

(二木謙一)

出典|朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版
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世界大百科事典 第2版の解説

おおのはるなが【大野治長】

1567?‐1615(永禄10?‐元和1)
安土桃山・江戸初期の武将。従五位下修理亮。淀君の乳母大蔵卿局の子。豊臣秀吉に仕え,文禄の役では肥前名護屋に出陣した。1599年(慶長4),徳川家康暗殺の疑いを受けて下総に流されたが,関ヶ原の戦の後,側近として秀頼に仕え,片桐且元らの退城後は豊臣氏の代表として大坂冬の陣の講和等に当たった。弟治房とともに主戦派と言われている。夏の陣で秀頼に殉死。【加藤 真理子】

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大辞林 第三版の解説

おおのはるなが【大野治長】

?~1615) 安土桃山時代の武将。通称、修理亮しゆりのすけ。豊臣秀吉・秀頼に仕えた。関ヶ原の戦いでは徳川方についたが、のち秀頼に再仕。大坂夏の陣に敗れ、秀頼に殉じた。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

大野治長
おおのはるなが
(?―1615)

安土(あづち)桃山時代の武将。母の大蔵卿局(おおくらきょうのつぼね)が淀殿(よどどの)の乳母(うば)であった関係から豊臣(とよとみ)秀吉に仕えた。秀吉の死後、大坂城内での徳川家康暗殺の謀議に加わったかどで下総結城(しもうさゆうき)(茨城県)に追放されたが、関ヶ原の戦いの際、とくに許されて東軍の福島正則(まさのり)隊(浅野幸長(あさのよしなが)隊ともいう)に属して軍功をたてた。戦後豊臣家に復帰し、淀殿の信任のもとに頭角を現し、京都大仏殿の鐘銘事件で片桐且元(かたぎりかつもと)が大坂城を退去してからは、わずか1万石の知行(ちぎょう)(『大坂御陣山口休庵咄(ばなし)』による)ながら城内第一の出頭人となり、東西間の難局に対処したが、豊臣家の悲運を阻止することはできなかった。落城のとき家康に秀頼(ひでより)母子の助命を嘆願させるため、家康の孫娘で秀頼の夫人であった千姫(せんひめ)を城内から脱出させたが徒労に終わり、秀頼に殉じて自殺した。当時から淀殿との艶聞(えんぶん)がうわさされたりしたので、俗説では姦佞(かんねい)の徒とされるが、豊臣家存続のため最後まで努力したことは事実で、再評価せねばならぬ人物であろう。[岡本良一]
『岡本良一著『大坂冬の陣・夏の陣』(1972・創元社)』

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