(二木謙一)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報
安土(あづち)桃山時代の武将。母の大蔵卿局(おおくらきょうのつぼね)が淀殿(よどどの)の乳母(うば)であった関係から豊臣(とよとみ)秀吉に仕えた。秀吉の死後、大坂城内での徳川家康暗殺の謀議に加わったかどで下総結城(しもうさゆうき)(茨城県)に追放されたが、関ヶ原の戦いの際、とくに許されて東軍の福島正則(まさのり)隊(浅野幸長(あさのよしなが)隊ともいう)に属して軍功をたてた。戦後豊臣家に復帰し、淀殿の信任のもとに頭角を現し、京都大仏殿の鐘銘事件で片桐且元(かたぎりかつもと)が大坂城を退去してからは、わずか1万石の知行(ちぎょう)(『大坂御陣山口休庵咄(ばなし)』による)ながら城内第一の出頭人となり、東西間の難局に対処したが、豊臣家の悲運を阻止することはできなかった。落城のとき家康に秀頼(ひでより)母子の助命を嘆願させるため、家康の孫娘で秀頼の夫人であった千姫(せんひめ)を城内から脱出させたが徒労に終わり、秀頼に殉じて自殺した。当時から淀殿との艶聞(えんぶん)がうわさされたりしたので、俗説では姦佞(かんねい)の徒とされるが、豊臣家存続のため最後まで努力したことは事実で、再評価せねばならぬ人物であろう。
[岡本良一]
『岡本良一著『大坂冬の陣・夏の陣』(1972・創元社)』
安土桃山・江戸初期の武将。従五位下修理亮。淀君の乳母大蔵卿局の子。豊臣秀吉に仕え,文禄の役では肥前名護屋に出陣した。1599年(慶長4),徳川家康暗殺の疑いを受けて下総に流されたが,関ヶ原の戦の後,側近として秀頼に仕え,片桐且元らの退城後は豊臣氏の代表として大坂冬の陣の講和等に当たった。弟治房とともに主戦派といわれている。夏の陣で秀頼に殉死。
執筆者:加藤 真理子
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