大関和(読み)おおぜきちか

日本大百科全書(ニッポニカ) 「大関和」の意味・わかりやすい解説

大関和
おおぜきちか
(1858―1932)

日本の看護婦(看護師)の先駆者の一人。下野(しもつけ)国(栃木県)生まれ。2児を連れて離婚後キリスト教入信、勧められて看護婦となった。桜井女学校看護婦養成所1期生で、ナイチンゲール看護学校卒業のベッチAgnes Vetch(1842―1942)の直接の訓導を受けた。1888年(明治21)帝国大学医科大学附属病院外科婦長に就任、2年間で退職し、新潟で伝道と看護教育に携わった。1896年上京、看護学校同期生の鈴木雅(まさ)が設立した派出看護婦会会長となり、キリスト教の理念で派出看護にあたった。後年、大関派出看護婦会を設立、後進の指導・教育、派出看護の質の向上に努めた。日本キリスト教婦人矯風会の先頭にたち、廃娼(はいしょう)、禁酒婦人参政権運動など婦人活動家としても活躍。著書に『派出看護婦心得』(1899)『実地看護法』(1908)がある。

[山根信子]

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朝日日本歴史人物事典 「大関和」の解説

大関和

没年:昭和7.5.22(1932)
生年安政5.4.11(1858.5.23)
看護婦の草分け。下野国黒羽藩(栃木県)の国家老大関増虎とテツの次女。19歳で結婚,2児をもうけるが夫との仲がうまくいかず離婚。上京して正美英学塾に学びキリスト教の影響を受け桜井女学校付属看護婦養成所の第1期生となる。卒業後,帝大付属病院外科婦長,新潟県高田女学校生徒取締,知命堂病院婦長などを務めたのち,明治29(1896)年桜井女学校の同期生鈴木雅の設立した看護婦講習所の講師となり,次いで雅の後任として東京看護婦会会頭となる。42年大関派出看護婦会を開設するかたわら大日本看護婦人矯風会を創立,機関誌を発行し看護婦の社会的地位の確立と後進の指導に尽くした。著書に『実地看護法』『派出看護婦の心得』がある。<参考文献>亀山美知子『近代日本看護史』

(吉沢千恵子)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「大関和」の意味・わかりやすい解説

大関和
おおぜきちか

[生]安政5(1858).4.11. 下野,黒羽
[没]1932.5.22. 東京
日本の近代看護の先駆者,婦人運動家。黒羽藩の家老に嫁いで離婚したのち正美英学塾に学び,1886年桜井女学校に創設された看護婦養成所に1期生として入学。 1888年卒業後,帝国大学医科大学第一医院の外科看護婦取締となった。 1890年新潟県高田女学校に生徒取締兼伝道師として赴任。 1891年同地の知命堂病院婦長となり,産婆看護婦養成に携わった。 1896年東京看護婦会の看護婦養成所教師となり,1906年からは同会の会頭となった。 1909年に独立して大関看護婦会を創設し,看護婦養成と派出業務を行なった。著書『実地看護法』。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「大関和」の解説

大関和 おおぜき-ちか

1858-1932 明治-大正時代の看護教育者。
安政5年4月11日生まれ。大関弾右衛門の次女。桜井女学校付属看護婦養成所でまなぶ。明治34年東京看護婦会会頭となる。42年東京神田に大関看護婦会を設立して,キリスト教精神にもとづき後進の育成にあたった。昭和7年5月22日死去。75歳。下野(しもつけ)(栃木県)出身。著作に「実地看護法」。

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