日本大百科全書(ニッポニカ) 「天中軒雲月」の意味・わかりやすい解説
天中軒雲月
てんちゅうけんうんげつ
浪曲師。
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(1895―1945)本名原田定治。佐賀県生まれ。早熟の天才型で、桃中軒雲右衛門(とうちゅうけんくもえもん)の去った九州でたちまち第一人者になり、1912年(明治45)1月に上京しその片鱗(へんりん)をみせた。大正期には鼈甲斎虎丸(べっこうさいとらまる)、木村重友(しげとも)、東家楽燕(あずまやらくえん)(1887―1950)とともに四天王に数えられたが、36歳のおり精神に異常をきたして引退した。
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(1909―1995)本名伊丹(いたみ)とめ。東京・浅草生まれ。前名藤原朝子(ともこ)。天中軒雲月嬢を経て、1934年(昭和9)2代目を継ぎ、『杉野兵曹長の妻』や『九段の母』で大当りをとった。映画にも出演、「七つの声」の異名で人気があったが、第二次世界大戦後、伊丹秀子(ひでこ)と改名した。3代目はその二女豊子(とよこ)(1928―1987)が継ぎ、4代目は秀子の弟子の立石弘(1916―1995)が1950年(昭和25)に襲名、日本浪曲協会会長を務めるなど活躍した。
[秩父久方]