歌舞伎(かぶき)、浄瑠璃(じょうるり)、講談の題材および演目名。佐倉惣五郎(そうごろう)の名で知られる義人木内宗吾(そうご)の事跡を脚色したもの。まず実録本や講談に扱われ、劇化の最初は1851年(嘉永4)8月江戸・中村座初演の3世瀬川如皐(じょこう)作『東山桜荘子(ひがしやまさくらそうし)』。室町幕府の東山時代を背景に、柳亭種彦(りゅうていたねひこ)の『偐紫田舎源氏(にせむらさきいなかげんじ)』を絡ませ、宗吾を浅倉当吾、堀田正信(ほったまさのぶ)を織越政知の名で脚色、主役の4世市川小団次(こだんじ)の好演で評判になった。のち1861年(文久1)河竹黙阿弥(もくあみ)が「田舎源氏」の筋を抜き『桜荘子後日文談(ごにちのぶんだん)』の名題(なだい)で補訂した脚本が基盤になり、その後も名題は種々変わったが、明治後期からは役名を実名どおりとし、名題も『佐倉義民伝』にほぼ定着して今日に至った。
下総(しもうさ)(千葉県)佐倉の名主木内宗吾は、領主堀田上野介(こうずけのすけ)の暴政に苦しむ農民を救うため、江戸屋敷に門訴したが、不成功に終わったので、いったん国へ帰り、監視厳しい印旛(いんば)沼を渡し守甚兵衛の義侠(ぎきょう)で渡って、妻子に別れを告げ、ふたたび江戸へ上り、上野・寛永(かんえい)寺で将軍に直訴する。願いはかなえられるが、上野介は宗吾を妻子もろとも磔刑(はりつけ)に処したあと、宗吾一家の亡霊に悩まされ、ついに堀田家は滅びる。歌舞伎に珍しい農民劇。まれに「門訴」や宗吾の叔父光然(こうぜん)の祈りを描いた「仏光寺」が上演されるが、有名なのは「渡し場」「宗吾内子別れ」「直訴」の3場で、とくに「子別れ」は雪を効果的に使った愁嘆場として名高い。宗吾は初代中村吉右衛門(きちえもん)の当り芸であった。
[松井俊諭]
下総国印旛郡公津台方村の名主佐倉宗吾(佐倉惣五郎)が,佐倉藩の重税の負担に苦しむ農民を代表して将軍に直訴,租税は軽減されたが宗吾夫妻は磔(はりつけ)にされたという話は,史料の不足から,事実の有無,その年代など,諸説紛々としているのが実情である。こうした宗吾伝説をもたらすのに,地方巡演を業としていた講釈師の存在を無視することはできない。行く先々で,その土地出身者の功績や風習を語った彼らは,百姓一揆のさかんな土地で佐倉宗吾の伝記を語り,それが講談《佐倉義民伝》に形成されたと考えられる。この《佐倉義民伝》に取材した歌舞伎脚本《東山桜荘子(ひがしやまさくらそうし)》が3世瀬川如皐(じよこう)によって書かれ,1851年(嘉永4)8月江戸の中村座で初演されたことで,佐倉宗吾伝説は定着した。《佐倉義民伝》は,第2次世界大戦後の農民運動でももてはやされ,印旛沼の渡し守甚兵衛が鎖を切って宗吾を渡す《甚兵衛渡し》のくだりは多くの浪曲家によって手がけられている。
→義民物
執筆者:矢野 誠一
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
出典 日外アソシエーツ「歌舞伎・浄瑠璃外題よみかた辞典」歌舞伎・浄瑠璃外題よみかた辞典について 情報
…惣五郎を葬ったという成田市の東勝寺(宗吾霊堂)には多数の参詣者がある。【児玉 幸多】
[伝承と作品化]
惣五郎伝説は実録本《地蔵堂通夜物語》(宝暦以降に成立)もしくは講釈師石川一夢,初世一立斎文車らの《佐倉義民伝》によって,幕末期にかなり人口に膾炙(かいしや)した。くわえて歌舞伎劇に舞台化され,惣五郎像は当時の民衆のなかに定着。…
…別名題《東山殿花王彩幕(ひがしやまどのさくらのいろまく)》《返咲桜草子(かえりざきさくらそうし)》。通称《佐倉義民伝》《佐倉宗吾》。3世瀬川如皐作。…
※「佐倉義民伝」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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