日本大百科全書(ニッポニカ) 「天皇制ファシズム」の意味・わかりやすい解説
天皇制ファシズム
てんのうせいふぁしずむ
イタリアやドイツでは、ファシスト政党が大衆運動の圧力を利用して支配体制の外から政権を奪取することに成功し、ファシズム国家を実現した。これに対し日本では、ファシズム推進勢力が軍部を中心とした天皇制官僚機構の内部から形成され、彼らが民間右翼・ファシストの急進的行動を利用しつつ明治憲法体制の枠内で国家形態を立憲君主制からファシズムへと移行させた。またファシズム体制を支える権力構造、民衆支配の仕組み、イデオロギーも、分立割拠の国家諸機関とその天皇による統合、内務省管轄下の警察機構によるテロの制度化と地方行政機構に指導された町内会・部落会、官製国民運動による民衆の画一的組織化、日本主義国体論を中核とする思想の画一化と国防国家・大東亜共栄圏思想、というように天皇制の支配原理がファッショ的に再編成されたものであった。この特質をとらえて、十五年戦争期の日本の国家形態を単なるファシズム、軍国主義、戦時体制でなく天皇制ファシズムとよぶ。
従来からこの時期の権力規定については未決着の論争があり、ファシズム不在論、絶対主義反動強化論、純粋ファシズム論などに対して、天皇制ファシズム論は講座派理論を継承する歴史学界の主流的見解であった。それは、絶対主義天皇制(の国家機構)がその半封建的本質を変えることなくファシズムの機能を代位したとするもので、コミンテルンの三二年テーゼと第7回大会(1935)ディミトロフ・テーゼとを矛盾したまま接合した折衷論であった。しかし1970年代になって、近代天皇制が専制的性格の強いブルジョア立憲君主制を国家形態にもつブルジョア国家であるという有力な説が登場して、天皇制ファシズムという表現は、絶対主義本質論を含意しないファシズム支配体制の特質、立憲君主制の内部からのファシズムへの再編成として理解されるようになった。またはこのような意味で「日本ファシズム」という表現が多く使用されている。
日本のファシズムが天皇制ファシズムとなった契機は、天皇制軍部が国家総力戦体制を構築する過程のなかにみることができる。1920年代に政党政治と協調して戦争準備を進めてきた軍部は、昭和恐慌下に満州(中国東北)支配の危機と政党内閣の軍縮政策に直面して政党政治打破を目ざすファシズム推進勢力へと転化し、満州侵略と国際連盟からの脱退を強行し、軍部主導の国防国家を建設していこうとした。しかし軍部はその政治力の不足から、結局、議会を含む国家機関や政治的諸支配層の統合を天皇・宮廷貴族に委任し、民衆支配と統制経済の実施を官僚機構に依拠することによってしか国防国家を築くことができなかった。そのため、法・政治体制の面では国家総動員法と大政翼賛会の成立によって国民の政治的権利と議会政治を否定しファシズム体制へ移行したが、国家機構のうえでは既存の天皇制国家諸機関の間に戦争国策統合機関として大本営政府連絡会議、企画院、内閣情報局などを設置するにとどまった。また民衆動員を既存の行政機構に依存したため、民衆のなかにファシズムの基盤を確立し民衆から自発性を喚起することが困難であった。
[功刀俊洋]
『安部博純著『日本ファシズム研究序説』(1975・未来社)』▽『木坂順一郎著『日本ファシズム国家論』(『体系日本現代史3 日本ファシズムの確立と崩壊』所収・1979・日本評論社)』