精選版 日本国語大辞典 「松本奎堂」の意味・読み・例文・類語
まつもと‐けいどう【松本奎堂】
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幕末の志士。三河国(愛知県)刈谷(かりや)藩用人印南維成(いんなみこれしげ)の次男。松本氏に養われる。名は初め孟成、のち衡、通称謙三郎、奎堂は号。尾張(おわり)藩儒臣奥田桐園(おくだとうえん)に学び、のち江戸昌平黌(しょうへいこう)に学ぶ。1859年(安政6)名古屋に私塾を開設したが、2年後、大坂に出て昌平黌の同窓の松林廉之助(まつばやしれんのすけ)、岡鹿門(おかろくもん)と双松岡学舎(そうしょうこうがくしゃ)を開塾。塾生に盛んに尊攘(そんじょう)論を説く一方、京都で交わった吉村虎太郎(よしむらとらたろう)、藤本鉄石(ふじもとてっせき)らと討幕挙兵を計画。1863年(文久3)8月13日、大和行幸(やまとぎょうこう)の朝議決定により長州藩が討幕を実行する構えをみせるとそれに呼応し、14日、吉村、藤本ら同志30余名とともに天誅組(てんちゅうぐみ)を組織、吉村らとともに総裁となり大和五條(ごじょう)に挙兵した。しかし八月十八日の政変により事態は急変、朝議とりやめとなり追討を受け、鷲家口(わしかぐち)の戦いに敗死。著書に『奎堂文稿』『奎堂遺稿』がある。
[奈倉哲三]
『森銑三著『松本奎堂』(中公文庫)』
(三井美恵子)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報
幕末の尊攘派志士。名は衡,通称謙三郎,奎堂は号。三河刈谷藩士松本印南の次男。選ばれて昌平黌に学び,江戸藩邸で教授兼侍読となる。1861年(文久1)大坂に出て双松岡学舎を開塾。翌年には京都へ移り,藤本鉄石,吉村寅太郎らと交わる。63年8月藤本,吉村らと天誅組を組織して総裁の一人となり大和に挙兵するが,8月18日の政変後に諸藩兵の攻撃を受け,鷲家口の戦で戦死した。
執筆者:高木 俊輔
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