デジタル大辞泉
「中村彝」の意味・読み・例文・類語
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なかむら‐つね【中村彝】
- 洋画家。茨城県出身。白馬会・太平洋画会の研究所に学び、中村不折、満谷国四郎に師事。レンブラントやルノアールの影響を受け、肖像画を多く描いた。代表作「エロシェンコ氏の像」「老母像」。明治二〇~大正一三年(一八八七‐一九二四)
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中村 彝
ナカムラ ツネ
大正期の洋画家
- 生年
- 明治20(1887)年7月3日
- 没年
- 大正13(1924)年12月24日
- 出生地
- 茨城県水戸市
- 学歴〔年〕
- 早稲田中〔明治34年〕卒,名古屋陸軍幼年学校〔明治37年〕中退
- 主な受賞名〔年〕
- 文展特選〔大正5年〕「田中館博士の肖像」
- 経歴
- 軍人を志して名古屋幼年学校に入ったが、肋膜を患い、中退して画家に方向転換。明治39年黒田清輝の白馬会洋画研究所に入り、翌年太平洋画会研究所に学んだが満たされずに独自の道を探る。初めレンブラントにひかれて何点かの自画像を描き、のちルノアールの官能の世界に共鳴するようになる。43年太平洋画会会員となり、同年と翌年文展で「海辺の村」「女」がそれぞれ3等賞を受賞。44年から新宿・中村屋のアトリエ(初代荻原守衛、2代柳数助)に入り、中村屋の娘をモデルにルノアール調の「少女像」を何点か描いた。大正3年伊豆大島で制作。肖像画に秀で、9年に帝展に出品して絶賛を博した「エロシェンコ氏の像」のほか「田中館博士の肖像」「保田龍門氏肖像」「髑髏をもてる自画像」「老母像」などの作品がある。11年帝展審査員。晩年、ルノアールの画境を脱して幾何学的構成を試みたが病没した。
出典 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)20世紀日本人名事典について 情報
中村彝
なかむらつね
(1887―1924)
洋画家。明治20年7月3日、旧水戸藩士の三男として水戸に生まれる。早く父母と死別。陸軍幼年学校を肺結核で中退し、1906年(明治39)白馬会の葵橋(あおいばし)洋画研究所で黒田清輝(せいき)に、翌年太平洋画会研究所に移って中村不折(ふせつ)、満谷国四郎(みつたにくにしろう)に師事。太平洋画会展、文展に出品し、1910年太平洋画会会員となる。同年第4回文展出品の『海辺の村(白壁の家)』が三等賞、翌年の文展では『女』が三等賞を受賞。新宿中村屋の相馬愛蔵(そうまあいぞう)・黒光(こっこう)夫妻の後援を受けて制作を続けた。1916年(大正5)下落合に定住し、『田中館(たなかだて)博士の肖像』が文展特選となる。1920年帝展出品の『エロシェンコ氏の像』が称賛を集め、1922年帝展審査員に推挙される。レンブラント、ゴッホ、ルノワールらの影響を次々に取り入れてきたが、このころよりルノワールの影響を脱し、晩年の『髑髏(どくろ)を持てる自画像』(1923)、『老母像』(1924)により、セザンヌやゴシック美術の感化を示す独自の厳しい画境に至った。大正13年12月24日東京で没。遺稿集に『芸術の無限感』(1926)がある。
[小倉忠夫]
『『芸術の無限感』(1989・中央公論美術出版)』▽『三木多聞他解説『現代日本美術全集17 中村彝/須田国太郎』(1973・集英社)』▽『米倉守著『中村彝――運命の図像』(1983・日動出版部)』
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中村彝
没年:大正13.12.24(1924)
生年:明治20.7.3(1887)
明治大正期の洋画家。中村順正の3男。水戸市生まれ。幼時に両親を失い,明治31(1898)年上京し長兄宅で育つ。34年早稲田中学を中退して名古屋地方幼年学校へ入学,37年卒業のち東京の中央陸軍幼年学校に入学したが肺結核のため退校,翌年千葉県北条湊で療養中水彩画に親しんだことが画家を志望する契機となった。39年,白馬会研究所へ通う。ここで中原悌二郎を知り終生交友した。翌年中原を追い太平洋画会研究所へ移る。41年荻原守衛を知り強い感化を受け,レンブラントにも傾倒した。翌年第3回文展に「巌」を出品,褒状を受け画壇にデビュー。43年太平洋画会会員となり,同年の第4回文展に印象派的色彩の濃い「海辺の村」(東京国立博物館蔵)で3等賞を受賞,翌年の第5回文展でも「女」で連続3等賞を受けた。また,44年から淀橋区(新宿)角筈の中村屋裏の故荻原守衛のアトリエへ移り,大正4(1915)年まで住む。この新宿時代は,中村屋夫人相馬黒光と長女俊子への感情,創作上の苦心など,心理的葛藤の最も激しい時期であった。制作上では,俊子をモデルにした「少女」(第8回文展3等賞)などで,ルノワールへの強い傾倒を示す作風を展開,またセザンヌへの関心も示した。その後,「田中館博士の肖像」(第10回文展)などを発表し,官展で最も注目すべき作家とされ,特に大正9年の第2回帝展に出品した「エロシェンコ氏の像」(東京国立近代美術館蔵)は大きな称賛を呼んだ。晩期の作品に「老母の像」などがある。遺稿集に『生命の無限感』。
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中村彝 (なかむらつね)
生没年:1887-1924(明治20-大正13)
洋画家。旧水戸藩士中村順正の三男として水戸で生まれた。1901年名古屋陸軍幼年学校に入学したが,病気退学。洋画家を志して06年白馬会研究所に入り,翌年太平洋画会研究所に移り,中村不折,満谷国四郎の指導をうけた。09年文展に初入選し,翌年,翌々年と文展で《海辺の村》《女》がともに3等賞となった。新宿中村屋相馬愛蔵・相馬黒光夫妻に庇護され,肺患とたたかいながら,レンブラントの明暗法,ルノアールの官能的な色彩に傾倒しつつ,真摯(しんし)に独自の作風を追求した。肖像画にすぐれ,16年《田中館博士の像》が文展で特選となり,20年《エロシェンコ像》は帝展で賞賛を集め,22年審査員に挙げられた。晩年の《髑髏を持てる自画像》(1923,大原美術館),《老母像》(1924,水府明徳会)では,セザンヌの造形的表現への接近を示した。著書に《芸術の無限感》がある。
執筆者:匠 秀夫
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中村彝 なかむら-つね
1887-1924 明治-大正時代の洋画家。
明治20年7月3日生まれ。太平洋画会研究所で中村不折(ふせつ),満谷(みつたに)国四郎に師事する。レンブラントやルノワールの影響をうけ,新宿中村屋の相馬愛蔵・黒光夫妻の保護のもと制作にはげむ。「田中館(たなかだて)博士の肖像」や「エロシェンコ氏の像」などで知られる。大正13年12月24日死去。38歳。茨城県出身。
【格言など】画家にはただ信念! 常に固い固い信念と自由とがなくてはならぬ
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中村 彝 (なかむら つね)
生年月日:1887年7月3日
大正時代の洋画家
1924年没
出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報