奈良時代から平安時代にかけて焼かれた低火度の鉛釉瓷で,日本最古の施釉陶器。一般には平安時代の緑釉を含めて奈良三彩,緑釉あるいは彩釉陶器と呼ばれている。当時の文献や古文書には〈瓷〉〈瓷器〉〈青瓷〉〈青子〉などの用語がみられ,シノウツワモノ,アオシと呼ばれていた。著名な正倉院三彩はもと東大寺の什器であったが,950年(天暦4),それを納めてあった羂索院双倉の倒壊によって正倉院南倉に移封されたもので,三彩5点,二彩35点,緑釉12点,黄釉3点,白釉2点,合計57点の器物が伝世している。従来,彩釉陶器は唐三彩の影響を受けて奈良時代に始まったといわれており,年代の明らかな最古の三彩陶器は729年(天平1)に没した小治田安万侶の墳墓から出土した三彩小壺であるが,近年,7世紀後半代に属する緑釉陶器が畿内の各地から発見されており,まず南朝鮮の影響を受けて緑釉陶器が,次いで唐三彩の影響によって三彩など多彩釉陶器の生産が始まったと考えられる。彩釉陶器の器形は壺,瓶,鉢,盤,椀,皿類をはじめ,火舎,塔,薫炉,硯など多種類にわたっており,釉薬も鉛釉を基礎とした三彩,二彩,黄釉,緑釉,白釉などが用いられている。しかし,三彩,二彩,黄釉は奈良時代から平安時代初期までで,それ以後は緑釉単彩を主とし,わずかながら白釉と新しく始まった白釉緑彩陶が焼かれた。
彩釉陶器の製作は,奈良時代には中央の官営工房において行われたもので,733年(天平5)の正倉院文書《造物所作物帳》によると,陶土は肩野(大阪府枚方付近)から,燃料は山口(春日大社裏山)から取り寄せている。釉薬は官から支給を受けた黒鉛を焼いてできた鉛丹を基礎釉とし,これに緑青を加えて緑釉を,赤土を加えて黄釉を,白石を加えて白釉をつくり,素焼きした器物に筆で塗布した。平安時代には官営工房の組織が解体し,奈良,京都,滋賀,愛知,岐阜の各県で焼かれたことが緑釉陶窯の存在から知られる。彩釉陶器の出土遺跡は岩手県から鹿児島県まで全国的にみられ,300ヵ所を超えているが,奈良時代の多彩釉陶器出土遺跡は40ヵ所ほどである。遺跡の種類は宮殿,官衙(かんが),城柵,寺院,神社,祭祀遺跡,墳墓,集落,古窯などで,このうち寺院跡が3分の1を占める。彩釉陶器は墳墓(火葬蔵骨器),祭祀遺跡,宮殿・官衙・寺院における祭儀(正倉院三彩),仏事関係(密教法具)にみられるように,もっぱら祭器として用いられた。
→瓷器(しき)
執筆者:楢崎 彰一
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
… 盛唐三彩のはなやかな器物は,他国人をおおいに刺激し,渤海国,新羅国,日本国に三彩がつくられる手本となった。とくに日本の三彩は奈良三彩と呼ばれ,かなり忠実に盛唐三彩の施釉法を見よう見まねで倣っている。つづいて晩唐三彩を模倣したのはイスラム圏である。…
… 奈良時代に入ると新たに釉薬を施した陶器が出現する。その一つは正倉院三彩にみられるような低火度の鉛釉陶器であり,一般に奈良三彩,緑釉陶の名で呼ばれている日本最古の施釉陶器である。この彩釉陶器は奈良時代には三彩,二彩などの多彩釉陶が,平安時代には緑釉陶が基調をなしており,当時,瓷,瓷器(しき∥しのうつわ),青瓷などの名称が用いられた。…
※「奈良三彩」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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