安国寺村(読み)あんこくじむら

日本歴史地名大系 「安国寺村」の解説

安国寺村
あんこくじむら

[現在地名]茅野市宮川みやがわ 安国寺

東は茅野ちの村、北は宮川、西は高部たかべ村、南は守屋もりや山麓の傾斜面から杖突つえつき峠・小飼こがい峠を越えて上伊那郡藤沢ふじさわ村(現高遠たかとお町)に接する。南部を杖突道が通じ、北部を御柱道おんばしらみちが通っている。

慶長七年(一六〇二)三月の志賀忠吉宛諏訪満水知行分状(三村文庫)

<資料は省略されています>

とあるのが初見。慶長一八年の信州諏訪郡高辻には「高弐百四拾弐石四升 安国寺村」と村名がみえ、天保五年(一八三四)石高は三三四・一二八石であった(信濃国郷帳)

西南部の守屋山麓一帯には、前宮まえみや古墳群・樋沢ひざわ古墳群など、諏訪大社上社大祝とその支族に関連すると推定される二〇余基の古墳があり、西北部の小段丘には諏訪大社上社前宮神殿こうどの跡があり、一画の神原ごうばらには同社大祝が職について以来代々の大祝の居館があった。

その南の小高い段丘上にある(樋)ざわ城跡は諏訪社上社大祝諏訪氏が拠点とした所で、本丸・二の丸・三の丸・空堀・石塚・曲輪跡が残っている。


安国寺村
あんこくじむら

[現在地名]綾部市安国寺町・中山なかやま町・梅迫うめざこ

高城たかしろ山東方の尾根愛宕あたご山麓に位置する。枝村に梅迫村・なか村がある。

地名は村内にある安国寺に由来する。中村は仁平二年(一一五二)の東光院文書にみえる「矢田郷東中村」にあたると思われる。安国寺村は中世八田やた郷に属し、近世以降独立の村名となったものであろう。

慶長六年(一六〇一)の御知行方目録(山家藩庁文書)に高一〇六〇・二八石「安国寺」とみえる。江戸初頭は山家藩領。寛永五年(一六二八)に旗本梅迫谷氏領となった。


安国寺村
あんこくじむら

[現在地名]畑野町畑野 安国寺

小倉おぐら川右岸にある安国寺を中心とした小集落。西は畑方はたがた村・畑本郷はたほんごう村の下畑しもばたの集落が隣接し、東は目黒町めぐろまち村・寺田てらだ村、南は小倉川を隔てて三宮さんぐう村。元禄七年(一六九四)検地では田六町七反余・畑一町四反余(佐渡志)。「佐州巡村記」では戸口は一〇軒・三六人。浄土宗安国寺は「佐渡国寺社境内案内帳」では暦応二年(一三三九)足利尊氏により諸国に建立された安国寺の一と伝える。


安国寺村
あんこくじむら

[現在地名]国東町安国寺

田深たぶか村の西に位置し、田深川が流れる。村名は足利尊氏の発願により建立された安国寺に由来する。天正一六年(一五八八)の参宮帳写(後藤作四郎文書)に国東郷のうちとして「あんこくし」とある。小倉藩元和人畜改帳に御蔵納分として案国寺村とみえ、高四七一石余で、家数七三のうち本百姓・小百姓二二、隠居・名子・牛屋四六、大工・山守各一、男六四(うち名子八)・女五七、牛二九・馬四。正保郷帳では来崎くのさき郷に属し、田高二七一石余・畑高一〇三石余で、茅山・柴山があり、新田が開かれていた。


安国寺村
あんこくじむら

[現在地名]上越市西本にしほん町一―三丁目・東雲とううん町二丁目・あずま町・五智ごち一丁目・石橋いしばし一―二丁目

至徳寺しとくじ村の西に位置。村名は慶長三年(一五九八)まで当地にあった寺院安国寺に由来。当地の小字名に武隊・諏訪木・八幡裏・阿良詩・座敷田などがあり、天和三年(一六八三)検地帳(上越市某氏蔵)に「いなりたて」がみえる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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