諏訪大社上社本宮(読み)すわたいしやかみしやほんみや

日本歴史地名大系 「諏訪大社上社本宮」の解説

諏訪大社上社本宮
すわたいしやかみしやほんみや

[現在地名]諏訪市中洲 神宮寺

諏訪大社は信濃国一之宮といわれ、末社は全国で五千余を数える。上社・下社の二社に分れ、上社は本宮と前宮まえみやに分れている。上社本宮は諏訪盆地の平坦部の西南端に近く、赤石山脈守屋もりや山の北麓にあって、南側の広大な社背林は神体山と称せられている。背後は杖突つえつき峠などを通じて上伊那郡と結ばれる。南東約一・五キロに前宮(茅野市の→諏訪大社上社前宮神殿跡があり、諏訪湖を隔てて湖北(現諏訪郡下諏訪町)に下社(諏訪郡の→諏訪大社下社がある。現在上社本宮は諏訪湖から約五キロ離れているが、古代から中世には、湖はかなり大きく、あるいは湖畔の一部が迫っていたとも考えられる。西方背後の丘上に諏訪地方で最古と考えられるフネ古墳(五世紀頃)がある。

社名は平安時代には、「三代実録」の貞観七年(八六五)の条に建御名方富命神社、「延喜式」には南方刀美神社、「左経記」寛仁二年(一〇一八)の条には須波社とみえる。鎌倉時代には、「吾妻鏡」に諏方神社・諏訪社・諏方上宮、諸国一宮神名帳に諏方宮とみえ、寛元四年(一二四六)の守矢文書に「諏方上社」と記され、この時代に上社と下社に分けて記され始めている。また、室町時代には諏訪(小坂)円忠が延文元年(一三五六)に著した「諏方大明神画詞」に諏方南宮・諏方大明神と記され、「融通念仏縁起」神名帳には陬波南宮、三河国神名帳には須波南宮とみえている。江戸時代から近年へかけては一般に上社あるいはお明神様とよばれてきたが、昭和二三年(一九四八)一一月から全国諏訪神社の総本社として諏訪大社と称せられ、上社は諏訪大社上社とよばれて今日に至る。

上社の祭神は建御名方命とされているが、他に伊勢津彦説などがあった。建御名方命は「古事記」によれば大国主命の子であり、「南方刀美神・御名方富命・建御名方富命」とも書く。「旧事紀」地神本紀に、大己貴神と高志沼河姫の子として「建御名方神坐信濃国諏方郡諏方神社」とみえ、建御名方神と諏訪大社との関係が明示されている。神紋は梶。

本宮の境内は社背林も含めて一〇万余坪の広さをもつ。社殿の現状は、東側から約六七メートルの長い布橋を通り、北面して並立する宝殿を左に見、次に南方守屋山の方向に左折し、再び東方に左折すると拝幣殿に面する。本殿はない。古態は、「諏方大明神画詞」に、

<資料は省略されています>

とあり、上段は祭神常駐の場所、中段に社の中心的建物である宝殿があり、拝殿や贄を供える場所は下段であった。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

事典・日本の観光資源 「諏訪大社上社本宮」の解説

諏訪大社上社本宮

(長野県諏訪市)
信州の神社百選」指定の観光名所。

出典 日外アソシエーツ「事典・日本の観光資源」事典・日本の観光資源について 情報

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