安土桃山時代美術(読み)あづちももやまじだいびじゅつ

改訂新版 世界大百科事典 「安土桃山時代美術」の意味・わかりやすい解説

安土桃山時代美術 (あづちももやまじだいびじゅつ)

政治史上の桃山時代は約30年間,文化史では少し間をとって1615年(元和1)を下限とする。いずれにせよ,半世紀に満たない期間であるが,造形美術の分野の活動は活発を極めた。織田信長豊臣秀吉ら新しく興った強力な集中的権力が,壮大な城郭殿舎寺院を相次いで造営させ,絵画・工芸のあらゆる分野がその荘厳のために動員されたことが,この時代の美術に活況をもたらした大きな原因である。

 桃山時代の美術の特色をいくつかあげると,第1に,気宇の大きさ,見るものの感覚に強く働きかけるモニュメンタルな性格があげられる。第2に,その構成・意匠が動きと変化に富み,奔放な創意にあふれていること,第3は金銀を主調とする華やかな装飾性である。それらの要素が,この時代の人間中心的な生活感情を反映して,明るさと向日性に富んだものとなっていることも特筆されよう。

桃山時代の美術に見るこのような特色は,室町時代美術の伝統の継承と,その統合,再編によって成立したものであり,室町時代後半,すなわち戦国時代には,桃山美術の前駆となる傾向のさまざまを見いだすことができる。幕府や有力大名の対明貿易に際し進物としてさかんにつくられた金屛風の花鳥図は,桃山時代金碧障壁画につながるものとして注目される。染織では,明や琉球との交易がもたらした金襴(きんらん),緞子(どんす),繻珍(しゆちん)など高度な織物の技術に刺激されて,堺や京都で独自に華麗で斬新な意匠がつくり出されたが,それは,室町時代末である。狩野永徳が1566年(永禄9)大徳寺聚光院の襖に描いた水墨《四季花鳥図》は,戦国大名三好氏のために描かれたものだが,若年の筆とも思えない大胆な筆使いと力動感みなぎる構図には,新しい時代の到来を思わせる爽快な響きがこもっている。

 76年(天正4)から79年にかけ信長が築いた安土城の天主は,外部五重,内部7階のこれまでにない斬新な意匠と構造によるものであり,桃山美術の性格を決定づける上で,画期的意義を持つものだったと思われる。永徳一門は用命に応じ,その内部の障壁画制作に全力を傾けた。また天皇の行幸を予定して城内に建てられた御殿も永徳の襖絵で彩られていた。これらの障壁画大部分は,濃絵(だみえ)の手法による,花鳥画,風俗画を主な画題としたものであった。安土城は82年の明智光秀の反乱によって焼失したが,秀吉はその後継者としてただちにいっそう大規模な大坂城を建造した。以後秀吉は在世中に聚楽第,淀城,名護屋城,伏見城と相次いで築城を行い,それぞれの城内には贅を尽くした書院造の殿舎があった。また秀吉が母の大政所のために建てた大徳寺内の天瑞寺も,寄進者の好みを反映して,禅宗の方丈としてはそれまでにない規模と内部装飾を持つものだった。こうした秀吉の豪奢趣味による殿舎建築は御所や院御所にも及んだ。それら興隆期の桃山美術の宝庫ともいうべき大規模な建造物は,すべて失われ,それが信長・秀吉時代の美術の実態をうかがい知る上での妨げとなっているのだが,それらの中にあって,残された狩野永徳の《洛中洛外図屛風》(上杉家)や《唐獅子図屛風》(宮内庁),伝永徳の《檜図屛風》(東京国立博物館)などは,細密と豪放の両極を描き分けていずれの場合にも時代の造形を牽引した永徳一門の金碧障壁画制作の一端を示している。工芸品としては永徳の図案によるとされる《芦穂蒔絵鞍》(東京国立博物館),《雪持柳揚羽蝶縫箔能装束》(岐阜春日神社),《白地草花模様片裾縫箔》(東京国立博物館)などの蒔絵や染色の遺品がある。特に小袖の普及は,服飾史における新しい段階を示す。これによって服装の階層性が打ち破られ,幅広い層が手軽な一枚着としての小袖をもとめるようになったことが,この時代の染織発展をうながす一つの要因となったといえよう。

 戦国武将の豪奢趣味の一方で,中世以来の侘茶(わびちや)の美術が深化をとげたのも桃山前期美術の特色である。その推進の役を果たしたのが千利休であった。利休の設計になる妙喜庵の茶室待庵は,利休好みの楽茶碗と相まって〈わび〉の造形の極点に立つものである。

いま述べたような永禄~天正年間(1558-92)は,信長,秀吉による相次ぐ社寺,殿舎の造営に促されて,あらけずりながら桃山美術がその力強い骨格を築き上げた時期と考えられる。それに続く文禄1-慶長5年(1592-1600)は,桃山美術の完成期ともいうべき重要な時期である。この時期の建築の遺品は少ないが竹生島にある宝厳寺の唐門と都久夫須麻神社本殿は,1599年(慶長4)造営の豊国廟の一部遺構と推定されている。その内外の建築装飾は鳥獣,草花などをモティーフとし,派手な彩色や牡丹唐草の精巧な透し彫など他の時代に見られぬ生気にあふれた意匠を展開している。また秀吉が愛児棄丸の菩提を弔って1593年(文禄2)に造営した祥雲寺客殿は,天瑞寺にまさる豪壮なものであった。その建物は残らないが,長谷川等伯とその一門による四季の樹木と草花を画題とした金碧障壁画は現在智積院に残り,永徳の巨大樹表現にやまと絵草花図の優美さを加えて,自然への親和の感情を示している。自然美のなかに浄土のイメージを見る日本の伝統的自然観が,現世肯定の時代精神と結びついて,このような単なる室内装飾の域をこえた時代精神の表現となっているのである。この智積院障壁画の自然描写に通じるものは,幸阿弥長晏(ちようあん)作の高台寺霊屋(たまや)の大厨子扉蒔絵(1596)や,同寺伝来の高台寺蒔絵にもあらわれている。

 室町時代以来の水墨画も,この時代に変化をみせる。永徳が祖父元信から受けついだ手法によって,それを自己の奔放な表現に転化させたのに対し,等伯には宋元画や室町水墨画の素養があり,それを時代の高揚した精神に合致させて新しい日本的水墨画を創造することができた。《松林図屛風》(東京国立博物館)がその成果であり,水墨画が日本の風光を正面からとりあげたすぐれた例である。

 1600年代に入ると建築や美術の数もましてくる。彦根城,姫路城のような桃山天守建築が出現する。障壁画の分野では,当時における金銀の産出量の増加を反映して,金銀の箔や泥をより豊富に用いる傾向が見られ,障壁画は文字どおり黄金時代に入ったかの感がある。弥勒の世の到来と呼ばれた,黄金のはんらんするこの時代のイメージは,障壁画の遺品を通じて十分に受けとめることができる。狩野光信筆の園城(おんじよう)寺勧学院《花木図襖絵》(1600)の魅力は,室外の光を反射して微妙に色合いを変える金箔地の効果にある。金地の静かな輝きを生かした優美な抒情性への志向が父永徳の画風にかわる光信の画の新しい要素とみられる。それはまたこの時代の障壁画に共通する傾向でもあった。

 長谷川等伯,狩野光信のほか狩野山楽,海北友松らの活躍も加わって,慶長年間(1596-1615)の障壁画制作は多彩をきわめた。なかでも山楽の大覚寺襖絵,友松の建仁寺襖絵などは永徳の豪放な画風がこれらの画家に引きつがれてさらに新しい発展をとげたことを示している。しかし全体を通してみるとき,前記の智積院や勧学院の襖絵が示したような,優美なやまと絵装飾画風への復帰が,共通した傾向としてあらわれていることを指摘できるだろう。友松の《浜松図屛風》(宮内庁),《花卉図屛風》(妙心寺),雲谷等顔の《夏山春山図屛風》などもこの傾向に沿ったものといえる。

 1600年代に入ってからの注目すべきもう一つの傾向は,風俗画の盛行である。前期の永徳画《洛中洛外図屛風》や,狩野秀頼の《高雄観楓図屛風》(東京国立博物館)などのあとをうけて,後期でも狩野派が風俗画制作にめざましく活躍した。狩野内膳筆《豊国祭礼図屛風》(豊国神社),狩野長信の《花下遊楽図屛風》(東京国立博物館)などは現世の享楽を素直に肯定しようとする人々の生活態度が反映されている。また南蛮美術は,ポルトガル人の渡来に伴う桃山文化の国際的性格を反映したもので,後期に流行した。来日のイエズス会修道士が布教用に持参した宗教画や世俗画は,神学校(セミナリヨ)で学習され,《マリア十五玄義図》(京都大学),《洋人奏楽図屛風》(MOA美術館)のような伝統的手法と異国の主題との混血によるエキゾティシズムにあふれた第1期の洋風画を生む。一方,来日ポルトガル人の見慣れぬ風貌と風習は,桃山人の好奇心の対象となり,風俗画や蒔絵の新しい画題,モティーフとしてもてはやされ,南蛮屛風,南蛮蒔絵に結実した。南蛮蒔絵は当時のヨーロッパにも相当数輸出されている。

 茶陶の分野では,利休の楽茶碗の系譜を継いで後期に織部,備前,伊賀などの焼物の隆盛をみた。これらは焼成の際に偶然に起こるひびわれやかたちの崩れのおもしろさに着眼してそれを積極的に生かし,また斬新な文様を施して,〈剽軽(ひようげ)〉と当時評された奔放なかたちの遊戯を展開する。中世の侘茶の理念が近世人の〈かぶく心〉と結びついて変容をとげた姿をそこに見ることができよう。同様な遊戯の精神は,小早川秀秋所用と伝えられる陣羽織のラシャ地に施された大胆な鎌のデザインや,近衛信尹(のぶただ)の男性的な書風のなかにも見てとることができよう。桃山美術が発散するこのように自由で闊達な精神は,中世から近世への美術の転換をうながすうえでの原動力であった。その余韻は次代の元和・寛永年間(1615-44)をへて寛文年間(1661-73)の寛文小袖あたりまで及んでいる。
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この時代特有の建築として重要なものは,新しく支配権を得た武家に関係の深い城郭と,武家住宅や寺の客殿などで完成をみた書院造,そして茶室である。また前代の戦乱で荒廃した寺社の復興活動も盛んであった。城郭は防衛という軍事的な役割とともに,領国を統治するという役割も重視されるようになり,山城から交通の便のよい平地に立地した平山城や平城へと変化した。この変化に応じて,防衛区画の計画(縄張)が複雑になり,地形の弱点を補うため,濠や石垣を幾重にもめぐらせ,石垣の上には土塀や渡櫓(わたりやぐら),隅櫓(すみやぐら)などを設けるようになる。石垣は初めは不整形な石を直線的な勾配で積みあげた野面積(のづらつみ)であったが,高く積むために側面を曲面(縄垂み(なわだるみ))にし,頂部は反転させ外側に持ち出す扇勾配(おうぎこうばい)がくふうされ,やがて角に切石を使う打込みはぎや,すべて切石を使った切込みはぎが普及し,造形的にも魅力のあるものになった。こうした近世城郭の基は1576年に織田信長が建設した安土城に求められるが,三十数年後に築造された姫路城(1609)では技術的・造形的にも格段の発達を示している。濠や石垣などの構成が特に優れている城郭には名古屋城(1612)などがあり,土塀,渡櫓の構成がよくわかるものには彦根城(1603)や姫路城などがある。天守閣は日本人がはじめて実用に供した高層建築であり,また防火のためしっくい壁で塗込(ぬりごめ)にした新しい形式の建築である。はじめは殿舎の上に望楼をあげた形式(丸岡城,犬山城)であったが,後に何層もの屋根を重ねた層塔型に変化する。

 住宅建築は武家の居館や寺院の客殿,方丈などで書院造の様式を完成させた。大名の居館は,対面などに使われる主室を,床(とこ),違棚(ちがいだな),書院,帳台構(ちようだいがまえ)などを備えた大広間にする形式が一般化した。室内は床に畳を敷き詰め,貴人の座は床框(ゆかがまち)を一段高くした上段にする。壁や襖には障壁画を描き,華麗で威厳のある空間を生み出した。しかし,城郭内にあった当時の大名の居館で現存するものは一つもなく,その内容は1624年に大改修を受けた二条城二丸御殿や他の資料から類推されるにとどまる。一方,寺院の客殿や方丈の書院も,武家住宅と同様に,障壁画をめぐらし,華麗な室内構成にしたものが多く,三宝院表書院(1598),園城寺光浄院客殿(1601),同勧学院客殿(1600),瑞巌寺本堂(元方丈,1609)などが代表例である。また,桃山期は書院に付随してすぐれた庭園が多数作られた時代でもある。

 豪華な書院造に対して当代建築の他の一面を代表するものに数寄屋造がある。茶湯の隆盛によって書院風茶室,お茶屋,小間(こま)の茶室など,茶室建築の基本形式が確立された。当時の建物で,そのまま残っているものは少ないが,創建時の形式を伝承しているといわれるものが少なくない。闘茶などの遊戯や客の接待に使われた書院風の茶室は床の間,違棚,書院などを備えているが,柱に面皮(めんかわ)材や色塗材を使い,壁も土塗にするなど,質素な室内構成をもち(竜光院密庵(みつたん),表千家残月亭,桂離宮古書院など),これが数寄屋造に発達する。住宅や別荘の庭園施設として設けられたお茶屋は,周囲の建具を開放的な障子などにし,庭園の自然と一体になった建築空間を作りだした(三渓園聴秋閣,桂離宮松琴亭など)。また,〈わび〉を追求した茶室は,4畳半から3畳,さらに狭い平面の空間を,質素な材料を用い,にじり口や床の間の配置,天井の高低などにより,自由でしゃれた小間の茶室を完成させた(妙喜庵待庵など)。このような茶室建築は,後の日本の住宅建築に大きな影響を与えている。

 寺社建築においては戦国時代に荒廃の極に達した伝統的な寺社の再興が盛んに行われた。これらの建築物は,伝統的な形式(和様,唐様,折衷様)を踏襲したものと,彫物や彩色で華麗に飾られたものとがある。前者には,日吉(ひえ)大社西本宮本殿(1586),同東本宮本殿(1595),園城寺金堂(1599)などがあげられる。現存しないが,1589年に建てられた方広寺大仏殿も,鎌倉時代再建の東大寺大仏殿の様式を受け継いでいた。後者には,豊臣秀吉をまつった豊国廟の建築を移したと伝えられる都久夫須麻神社本殿,宝厳寺唐門や大徳寺唐門,大崎八幡神社社殿(1607)などがある。また,西本願寺唐門など,真宗寺院の建築にも用いられ,こうした華麗な装飾は次代の日光東照宮などに受け継がれる。民家は《洛中洛外図屛風》などに二階座敷を持った町家が多く描かれ,建築的にもかなり充実してきたと思われるが,現存する遺構は,栗山家住宅(奈良県,1607)や古井家住宅(兵庫県)など,ごく少例を見るのみである。
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出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報

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