桃山時代から江戸時代初頭にかけて流行した西洋風美術の総称。当時ポルトガル人やスペイン人らの西洋人は、東南アジアにもつ植民地を経由して日本に来航したため、南方の外国人という意味で「南蛮人」とよばれた。これら南蛮人によってもたらされた西洋の文物や風俗に触発・影響されてできた異国的な絵画や工芸品を、一般に「南蛮美術」とよんでいる。その最盛期は、キリスト教の教勢が頂点に達し南蛮風俗が流行した16世紀末から17世紀初頭に求められ、寛永(かんえい)年間(1624~44)に整えられた禁教と鎖国の政策に阻まれて、急速な退潮を迎えるに至る。
1549年(天文18)フランシスコ・ザビエルが来日のおりに聖母マリアの画像をもたらして以来、布教のために来日した宣教師たちによって多くの宗教画が将来された。やがてキリスト教の流布とともに宗教画の需要は急増していき、輸入洋画だけに頼ることが不可能になったため、83年(天正11)西洋画法の教授としてジョバンニ・ニコラオGiovanni Nicolaoが来日、教会内のセミナリオ(修学寮)において日本人画家の育成が進められた。セミナリオでは油絵、フレスコ、テンペラ、銅版画などの本格的な西洋画の諸技術が伝授されたが、現在残る作品をみると、紙に日本在来の絵の具で描かれたものが多い。日本人画家の制作になる宗教画の遺品としては、『マリア十五玄義図』(京都大学および個人蔵)、『三聖者像』(東京国立博物館)、『フランシスコ・ザビエル像』(神戸市立博物館)などが知られている。
こうした布教の手段としての宗教画制作に始まった洋風画は、やがて鑑賞本位の非宗教画にも筆を染めるようになる。その多くは日本の伝統的な装飾画形式である障屏画(しょうへいが)に描かれ、一連の「南蛮人渡来図屏風(びょうぶ)」(通称「南蛮屏風」)をはじめ『泰西王侯騎馬図』(神戸市立博物館および東京・サントリー美術館)、『レパント沖戦闘・万国図』(兵庫・香雪美術館)、『洋人奏楽図』(東京・永青文庫および静岡・MOA美術館)などの西欧的な題材を扱った大作がある。小品としては、この時期の洋画家のうちで例外的にその名を画面に記し印を押す信方(のぶかた)(生没年不詳)の作『婦女弾琴図』(奈良・大和(やまと)文華館)、『日教聖人像』(兵庫・青蓮寺)が名高い。このように、キリスト教の伝来とともに開花した日本の初期洋画であったが、江戸初期のキリスト教禁制によって制作を停止され、中央画壇にほとんど影響を及ぼすことなく、中絶してしまう。
工芸の分野では、南蛮趣味の流行に促されて、西洋風な意匠による漆器、陶器、金工品などがつくられた。ことに漆芸においては、「南蛮漆芸」とよばれる異国的な作風をもつ一群が現れ、キリスト教関係の器具のほか、南蛮人の風俗や葡萄唐草(ぶどうからくさ)などの洋風文様を装飾意匠として用いた新鮮な作例が遺存している。「葡萄蒔絵聖餅箱(まきえせいへいばこ)」(鎌倉・東慶寺)や「洋人蒔絵鞍(くら)」(東京国立博物館)などがその代表例である。また、西洋人の趣味と用途にあわせた輸出品も多く制作され、「秋草蒔絵宝石箱」(東京国立博物館)などの例が知られている。陶芸では、織部焼(おりべやき)が西洋の事物や文様を好んで絵付(えつけ)に用い、南蛮人燭台(しょくだい)ほか異色の作品を生んでいる。さらに、ローマ字を透かしたり象眼(ぞうがん)したりした刀の鐔(つば)(法安(ほうあん)鐔)、キリスト教の紋章と1577の西暦が陽刻された西洋風の鐘「南蛮鐘」(京都・春光院)など、金工方面にも南蛮趣味の反映が認められる。
[小林 忠]
『岡本良知著『日本の美術 19 南蛮美術』(1965・平凡社)』▽『坂本満・菅瀬正・成瀬不二雄著『原色日本の美術 25 南蛮美術と洋風画』(1970・小学館)』▽『坂本満・村元雄著『日本の美術 34 南蛮美術』(1974・小学館)』
16世紀後期~17世紀中葉の日本で行われた西洋趣味の美術。大航海時代のポルトガル人やスペイン人が南方を経由して渡来したので,南方の外国人という意味で彼らを南蛮人と呼ぶようになった。南蛮人のもたらした西洋の文物や風俗に影響されて生まれた美術を南蛮美術と総称するが,その中には様式,流派,成因を異にするものがあるから,この呼称は文化史の用語としては適当でも,美術史の用語としては必ずしもふさわしくない。南蛮美術は桃山時代を中心に開花したが,寛永年間(1624-44)に実施されたキリスト教禁止政策と鎖国のためにしだいに衰滅に向かった。内容は洋風画,南蛮屛風などの絵画,漆器,陶器,染織,金工などの工芸品からなる。
洋風画は16世紀後期のキリスト教伝播とともに発足した。当時日本布教に当たったイエズス会では,信者数の増大にともない聖画が輸入品だけでは不足したため,教会付属の学校(セミナリヨ)で日本人の洋風画家を養成することにした。主として指導に当たったのは1583年(天正11)来日したニコラオGiovanni Nicolaoという聖職者の画家である。この絵画教育と聖画制作は16世紀末には軌道に乗り,油絵,フレスコ,テンペラ,銅版画などの西洋画技法が伝授され,多くの日本人画家による聖画が作られた。その作品はキリスト教迫害のためほとんど消滅したが,わずかに《マリア十五玄義図》(京都大学ほか),《親指の聖母》(東京国立博物館),《聖フランシスコ・ザビエル像》(神戸市立博物館)などが遺る。一方,洋風画家たちが当時の異国趣味にこたえて描いた西洋風俗図などは,今日でも相当数の遺品がある。《泰西王侯騎馬図》《洋人奏楽図》《レパント沖戦闘・万国図》などで,これらは屛風に描かれた。これらの遺品は輸入された西洋画を写したもので,当然西洋画法が用いられている。しかし,当時の洋風画家は元来聖画制作のための模写技術者として養成されたため,西洋画法そのものの摂取やそれに基づく東洋的,日本的題材の開発には熱心ではなかった。またこの時期の洋風画の制作期間も短かったので,当時の一般画壇にはほとんど影響を及ぼさなかった。なお南蛮屛風は西洋人来朝の光景を表した六曲一双の屛風絵で,前述の洋風画とは性格を異にし,当時の異国趣味にこたえるため,一般画壇において近世初期風俗画の一画題として描かれたものである。今日60点ほどの遺品があることから,当時流行した画題であったといえる。
工芸では南蛮漆芸と呼ばれる漆器が重要で,南蛮人やかるたなどを意匠とした国内用のもの,国内用にも輸出用にも供されたキリスト教の祭具,さらに西洋への輸出を目的とした洋櫃(ひつ),洋簞笥(たんす)などがある。陶器では織部焼(織部陶)が西洋風の意匠を好んで用い,南蛮人型の燭台などを作っている。また萩焼や小代焼(しようだいやき)などの俵形の鉢で十字文様のあるものを,キリスト教遺物とみる説がある。金工では十字架やローマ字などを透かしたり象嵌した鐔,西洋風の鐘がある。染織ではペルシア製の壁掛けを仕立て直した秀吉所用と伝える陣羽織,南蛮船文様の能装束などがあり,徳川家康着用の南蛮胴具足は西洋の甲冑の形式をとりいれている。
→南蛮文化
執筆者:成瀬 不二雄
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…狩野内膳筆《豊国祭礼図屛風》(豊国神社),狩野長信の《花下遊楽図屛風》(東京国立博物館)などは現世の享楽を素直に肯定しようとする人々の生活態度が反映されている。また南蛮美術は,ポルトガル人の渡来に伴う桃山文化の国際的性格を反映したもので,後期に流行した。来日のイエズス会修道士が布教用に持参した宗教画や世俗画は,神学校(セミナリヨ)で学習され,《マリア十五玄義図》(京都大学),《洋人奏楽図屛風》(MOA美術館)のような伝統的手法と異国の主題との混血によるエキゾティシズムにあふれた第1期の洋風画を生む。…
…グレゴリオ聖歌はオラショ(祈り)として現在も生月島の隠れキリシタンに歌いつがれている。
[南蛮美術]
イエズス会はキリシタンの求めに応じるため画学舎を設け,日本人学生に聖画像やロザリオ,メダイ等の工芸品を作らせた。書物の挿図や銅版画が手本であったが,油絵やテンペラ絵の技法は未熟で遠近法,陰影法も幼稚であった。…
※「南蛮美術」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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